混沌私見雑記

音楽やら小説やらアニメやら漫画やらゲームやらロードバイクやら

筆者が影響を受けたものを挙げるだけの記事

こういう自分語り文章を毛嫌いするひともいるし気持ちもわかるのだけれどそもそもブログって自分語りするものだよなということを思い出し、ぼくもまた他人のそういう文章を読むのが嫌いじゃないのでまあ楽しんでくれるひともいるだろうと思い、自分が影響を受けたものをつらつら挙げていこうと思います。つまり自己紹介記事です。

以下に挙げるものでなにか知っているもの・好きなものがあれば他のものにも興味をもっていただけますと幸いです。きっと好きだと思いますので。

……挙がったの全部日本のものだったな。まあぼくは日本人なので日本のものが好きでなにが悪いんだって話ですよ。そのうち海外編でも書くか?

Amazonリンク貼ってますがアフィ登録してないです、ってか審査落ちてます。ははは。

 

 

 

 
小説

 

佐藤友哉

ぼくのパーソナリティをつくりあげるファクターの4割くらいはこの作家による諸々のアレと言っても過言ではなく、ぼくが上京したのも定職に就かずにプラプラしているのも日々ルサンチマンを垂れ流しているのもだいたい氏のせい。
高校1年生という多感な時期に『フリッカー式』とかいうトンデモ小説を読んでしまったせいで人生がめちゃくちゃになってしまったため非常に恨んでいる。『1000の小説とバックベアード』は永遠にぼくのバイブルとして君臨しつづけるであろう。
最近は『転生! 太宰治』という小説が話題になった。

 

 

浦賀和弘 

記憶の果て(上) (講談社文庫)

記憶の果て(上) (講談社文庫)

  

佐藤友哉と同じメフィスト賞出身の作家。佐藤友哉と同じく多感な時期に読み、ぼくの人生の狂いを決定的なものとした。
その独特で奇抜な作風からセールスはかんばしくなかったが、近年『彼女は存在しない』がジワ売れしたことによって人気作家となる。
これから良質なミステリを量産しつづけていくのだろうと思っていたのだが、今年の2月に脳出血で突然逝ってしまった。安藤直樹シリーズは永遠に未完のままだ。半身を裂かれたような思いである。

 

村上春樹 

「あ、村上春樹ねw」とか言うやつマジで村上春樹を読めていない。『ノルウェイの森』しか読んでいない。
やれやれ、彼の小説が幻想文学でありサイエンス・フィクションでありシュルレアリスムでありスリップストリームであるということを知っている人間はどれだけいるのだろう?
ファンもアンチも表層の「気障で鼻につく感じ」しか掬いとっていないのかもしれない。ハチャトリアンの楽曲で『剣の舞』のみが知られている現象と同じように。

関連記事:村上春樹のこと、誤解してない? - アヤスミ雑記

 

 

乙一(永田永一、山白朝子) 

一番最初に「小説」を読んだのは乙一が一番最初だった。幸運だった。読みやすいエンタメだし。
「なんかみんな読んでるし、乙一好きって公言するの恥ずかしいな」と思っていた時期の自分を殴りたい。
とにかくエンタメ小説として技巧がすごい。システマチック。あと作風のレンジが広すぎる。
『GOTH』を読め。

 

 

谷川流 

っていうか涼宮ハルヒの憂鬱なんですが。『学校を出よう!』読んでなくてすみません。
筒井康隆御大が「『涼宮ハルヒの憂鬱』はライトノベルである以前に優れたSF作品である」とおっしゃってましたが本当にその通りです。そして優れた青春小説だとも思います。
ぼくがこうなってしまったのはだいたいハルヒのせい。陰キャになってしまったのも収入が低いのもハルヒのせい。非常に恨んでいる。
ぼくより前の世代の人は『ブギーポップは笑わない』や『イリヤの空、UFOの夏』にやられていると思われる。今の中学生ってマジでどんなライトノベルを読むんだ? そういう時代ではないのかもしれないね。

 


岡田淳

ふしぎな木の実の料理法 (こそあどの森の物語 1)

ふしぎな木の実の料理法 (こそあどの森の物語 1)

  • 作者:岡田 淳
  • 発売日: 1994/12/01
  • メディア: 単行本
 

児童文学の作家。ぼくの読書原体験。
「優れた児童文学は大人の鑑賞にも堪えられる。そうでなければ、ただの子供だまし」と大学の先生が言っていた。マジでその通りだと思う。大人になった今読んでも本当におもしろい。
心の薄汚れた大人は『こそあどの森の物語』シリーズを読むとよい。はい、わかりました。

 

 

漫画

 

手塚治虫

火の鳥【全12巻セット】

火の鳥【全12巻セット】

  • 作者:手塚 治虫
  • 発売日: 2013/07/08
  • メディア: コミック
 

手塚しか勝たん。
「漫画の神様」と言われているように漫画史開闢以来マジでだれひとりとして彼を超えられた者はいない。だれがなんと言おうといない。村上春樹の件もそうだけどちゃんと読んだこともないのに適当なこと言うなよお前ら。ていうか手塚治虫読んでないのに漫画好きを名乗るなよ。オルタナ好きなのにニルヴァーナ聴いてないやついないだろ。
火の鳥』にはこの世界のことすべてが書かれている。『ブラックジャック』は凡百の道徳の教科書に勝る。ぼくはマジであらゆる影響を受けている。

 

鬼頭莫宏

 

やたら線の細い少年少女が陰惨なSF世界でぐちゃぐちゃになる話を書いている人。『なるたる』『ぼくらの』はアニメ化して有名になった。両方再アニメ化してくれないかな。
鬱漫画専門のひとかと思いきや意外と日常系も描かれていらっしゃる。『のりりん』を読んだせいで20万円のロードバイクを購入するハメになったので非常に恨んでいる。
氏は現在病気療養中で原作仕事しかしていない。『双子の帝國』の復活待っています。

 

 

TAGRO

マフィアとルアー (星海社文庫)

マフィアとルアー (星海社文庫)

  • 作者:TAGRO
  • 発売日: 2011/09/09
  • メディア: 文庫
 

変ゼミ』がヒットしてしまったがばかりにすべてを『変ゼミ』にもっていかれた気がする。いや『変ゼミ』はとてもおもしろい漫画ですが。
このひとは作風のレンジがとても広く、SF、ギャグ、時代物、さらには複乳などを取り扱ったマニアックなエロ漫画から「青春の傷み」みたいな短編まで書く。
『マフィアとルアー』と『DON’T TRUST OVER』はバイブル。

 

 

ふみふみこ

女の穴 (RYU COMICS)

女の穴 (RYU COMICS)

 

大学時代に狂ったようにふみふみこを読んでいた時期があった。
やっぱり「青春の痛み」 みたいな漫画が、ぼくはすきです。

 

 

 

映画

 

園子温


なんかこの流れで園子温挙げると「はい出ましたw」って言われそうだな。単芝生やすなぶっ飛ばすぞ。
混沌が熱量をもって勢いのまま突っ走る映画が、ぼくは好きです。

 

 

三木聡



時効警察』の人。
とてもコミカル。こんな脱力系な映画撮れる人ほかにいるのかしら。あ、大九明子がわりとそうかも。
映画監督が好きで観てるのって園子温三木聡くらいかもしれない。そしてぼくは映画のことに関しては言葉数が少ない(自信がないから)。

 

 

新海誠

 

君の名は。』が爆売れした人。
いいから『雲のむこう、約束の場所』を観てほしい。
新海誠については以前12,000字くらい文章を書いたのでくわしくはこちら↓

関連記事:新海誠全作品ふりかえり ~『天気の子』は『君の名は。』の延長にある作品だという話~ - アヤスミ雑記

 

 

 

ゲーム

 

ゼルダの伝説 ムジュラの仮面



ゼルダ作品に駄作はひとつもないしどれがいちばんおもしろいかと聞かれると非常に難しいのだが、ぼくへの影響がもっとも著しいのが『ムジュラの仮面』。
任天堂のゲームとは思えない不気味で奇天烈な世界観。『ブレスオブザワイルド』も膨大なイベント数があったが、『ムジュラの仮面』は64のゲームながら密度がすさまじい。アンジュとカーフェイ、ロマニー牧場、トイレからのびる手……。トラウマもいっぱいだ。
まだ子供のころにプレイしたのだがどっぷりハマった。もちろん成長してからリメイクもプレイした。優れたゲームは子供のプレイにも大人のプレイにも堪えられるのである。

 

FINAL FANTASY VII

 

単純におもしろさで言えば10のほうが上な気もするのだが、多感な時期の少年への影響及ぼし度で考えると7がいちばんなんですよ。次点で6、8か。ぼくも例外なくやられた。直撃世代ではないのだが。
スチームパンクな世界観でシナリオも基本的にまじめな内容なのだが随所にユーモアが散りばめられていて適度にコミカル。そういえばリメイク版プレイできてねえな。みなさんもぜひリメイク版やる前に原典をクリアしてほしい。
「死んだ人間は『ライフストリーム』という集合体エネルギーの中を漂う」という概念は曲を書いたりするときに参考にしています。要は『千の風になって』ということである(?)。

 

 

 

音楽

 

三善晃

 

日本においてもっとも偉大な現代音楽家のひとりでは?
作品は声楽曲、器楽曲、管弦楽曲吹奏楽曲、交声曲、電子音楽、現代邦楽など多岐にわたりすぎている。
管弦楽のための協奏曲』は日本人の作曲したシンフォニエッタの最高傑作だと勝手に思っている。動画は都合により『深層の祭』です。短いので聞きやすいよ。

 

 

BUMP OF CHICKEN

 

正直挙げるのはためらったのだが、やっぱりBUMPは聞いていた。アルバムだと『ユグドラシル』が一番好き。
この項はこれで以上です。

 

 

相対性理論

 

相対性理論の登場は間違いなくエポックメイキングだったし、メルクマールとしてずっとシーンに存在している、ようでずっと実態がつかめない不思議なバンド。
中心人物であった真部脩一と西浦謙介脱退以降も鍵盤やパーカッションを採り入れて編成を変えて継続しているのは本当にすごい。活動の内容も他のロックバンドとは一線を画している。
真部脩一と西浦謙介が結成した集団行動というバンドも非常に良質なポップスを鳴らしている。

 

 

the cabs

 

2013年解散。これもう現代音楽(狭義)だろ。でもメロはめちゃくちゃキャッチーですごい。
『anschluss』はたぶん人生で一番再生している曲。そしてぼくにとっての最終目標みたいなもの。
うねりまくるギターのアルペジオ、歌いながら弾いているとは思えないフレーズのベース、爆撃機のようでありながら繊細なドラム、そして歌詞は物事がブチ壊れる一歩手前の儚さの美しさを孕んでいるというか……なんか気持ち悪くなってきたのでやめます。
最近、所属していバンドあみのずのボーカルの紺野メイが高橋國光氏のソロプロジェクトösterreichの楽曲『きみを連れてゆく』にゲストボーカルで参加した。ずっとあこがれだった存在の楽曲にバンドメンバーが参加するなんて、そんなことある? 

きみを連れてゆく

きみを連れてゆく

  • provided courtesy of iTunes

 

ドラムほど世間のイメージとは真反対な楽器はない説

こんにちは無職です。ときどきドラムを叩いているタイプの無職です。

タイトルの通りです。

ドラム、あまりにみなさんのイメージとは反対をいっているパートだなと。

ぼくも思っていました。「ドラムはマッチョでなければいけない」「花形の楽器」などと。本当にそんなことはなかった。

ドラムの誤解を、訂正したい。

※この記事はすべて個人の主観だから本当に怒らないでほしい。こういう側面もあるよって話だから……。

 

もくじ

 

①パワーが必要

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戦隊モノのイエローから「カレーライスが好き」というステレオタイプなイメージがこびりついて離れないように、ドラマー=筋肉ダルマorデブというイメージの方も多いのではないだろうか。

 デブ、ドラムとキャッチャーとゴールキーパーとチューバやらされがち。

一概には言えないけれど、基本的にドラマーにマッチョな筋肉は必要ない。

ジャンルにもよるけれど、力任せに叩く楽器ではないのだ。

力任せに叩けばたしかにでかい音は出るけれど、それはもはやスポーツ的なアプローチやで。

ドラムはたしかに出せる音量のレンジが広ければ広いほどよい。自分の出せる最大音量が大きければ大きいほどよい。しかしそれは「力任せでなくとも出せる音量」のこと。

ぼくのドラムの先生は細腕で筋肉も体重もないけれどバカでかい音量が出せる。「振り下ろしからヒットまでのスピードさえあれば大きい音は出る」とのこと。あとはどれだけスイートスポットに的確に当てているか、チューニングが適切かどうか、とかいろいろあるのだけど、とにかくパワーで叩くものではないんだな。パワーで叩く人はいるし、それはそれで悪いってわけではないんだけど。

まあでも体重があるとでかい音が出やすいのも事実だけどね。

 

②目立つ・華やか

シンバルがうるさいだけだろ。

お前普段ドラムに着目しているか? ボーカルとギターしか見てなくないか?

ドラムは目立つというよりは「なにをやっているかわかりやすい」だけである。

ドラムは自己主張しすぎないのが大事なのだ。ソロ以外で目立ちたがるドラムは半ば職務放棄といっても過言ではない(もちろんジャンルやプレイスタイルにもよる。畑利樹さんかっこいいよね)。

たしかに吹奏楽やジャズでは一番動きが激しい(わかりやすい)のがドラムなので花形と見られることもなくはないが、ロックバンドだと全員バリバリ動くし、だいたい一番後ろに配置されてボーカルに隠れてよく見えないしマジで目立たない。

なお、ミスはこれでもかというくらい目立つし素人でもわかる。不憫すぎるわ。

 

③ノリと勢いが大事

まあたしかにノリは大事ではある。といってもグルーヴ的な意味での「ノリ」だ。「イケイケGOGO」で叩く楽器ではない。

「速い曲は勢いあるじゃん!」という人もいるかもしれないが、それは速い曲だからです。

ドラムはまずリズムキープが義務(基本的には)。そしてグルーヴ管理が主な仕事。

まずはだれよりも冷静であることが求められる。速い曲や派手なフレーズは特に集中して演奏しますよ。勢いだけではいけない。勢いでいく人や勢いだけでいく人もいますが。

 

④ストレス解消によさそう

本気で言ってんのか?

失礼した。

ドラマーには数えきれないほどのストレス要素がまとわりついているので以下に列挙する。

A.アンサンブルの拠り所なるというプレッシャー

たしかにひとりで好きな勝手になにも気にせずしがらみなく叩く分には楽しい。それはそう。

しかしこれがバンドになると、ライブになると、半端ではないプレッシャーだ。テンポやグルーヴの拠り所にさせられるプレッシャーよ。それがまた魅力でもあるのだが、負荷がすごい。

人に「これからリハーサルなんですよ」と言った時に「じゃあドラム叩いてストレス解消できるね」とか言われると「ちゃいますねん!」とつっこみたくなる。

B.練習しにくい

日本の一般的な住環境考えるとまず生ドラムは無理。電子ドラムもかなり振動が響く。

わざわざスタジオに行かなければならない。金を払わなければならない。この面倒くささよ。まあボーカルもそうだけどさ。

C.身体を壊す

痔と腰痛。

ぼくはどっちもやってます。

D.運搬がダルすぎる

ライブハウスやスタジオには基本的にセットは常設しているけれど、自分の楽器を使おうとするとマジでダルい。ダルすぎてダルビッシュ憂になる。

スネアとペダルだけでもまあまあの重量なのにシンバルも……となると本当にしんどい。

フルセット持ち込みなら車が必須。

E.めちゃくちゃ怒られるし要求される

マジでこれ。

ドラムは他のパートから要求される機会が非常に多い。これが最大のストレスとなる。 

ロッキングオンジャパンに掲載経験のあるバンドで脱退率が一番高いパートはドラムだったという調査結果があるが、これはまあつまりそういうことだろうと非常に納得できる結果だ。

テンポの速い・遅いやグルーヴの動きはバンド全体が影響しあって変容するもの。たしかにドラムの影響力はダントツで大きいのだが、ドラマーだってわざとテンポを揺らしたいわけではない。なのにとりあえずドラムのせいにされたりする(ドラムのせいであることももちろんあります)。

ノリや出音については特にボーカル(あるいはバンドリーダー)とずっと喧嘩しつづけることとなる。「方向性の違いにより脱退」というのはつまりそういうことではないかしら。

 

⑤モテそう

モテません。

 

最後に

以上です。

なんだこのクソ記事は。

ドラムはマゾヒスト向けの楽器です。バンドでドラムがやりたいという人は覚悟したほうがいいでしょう。そしてみなさんバンドのドラマーのことをもっとねぎらってあげてください。作詞作曲ボーカルギターの人も大変ですけど、ドラマーはまた別種のストレスをかかえて生きています。

なんだかネガキャンみたいになりましたがぼくはドラムのことは好きです。バンド内のグルーヴ王になれるというのは他の楽器にはできない魅力でもあります。あとは「それぞれの叩き方やチューニングによって出音やノリがまったく異なる、プレイヤーの個性がとても反映される楽器」というのも大きな魅力ですね。

ドラマーはめちゃくちゃ人口が少ないので重宝されますし、とりあえずバンド組みたいから、とかそういった理由でなるのはありかも……? ひっぱりだこになるがあまり中継ぎ投手並みに酷使されるけども。家で練習もできないけども。ギターやベースと違って独学だと限界があるけども(ドラマーはやっぱりみんなだれかに習っている割合が高いよ)。あとドラマーはある程度絶対に音楽理論をおさえておく必要があるからね。ギターやベースは感覚でやってる人多いけどドラマーはそうはいかないからね。

それではみなさん、素敵な音楽ライフを! ぼくは生まれ変わったらリードギターやりまーす。

まだ安物のママチャリで消耗してるの? ~クロスバイクのすすめ~

今日みんなに伝えたいことは「高い自転車を買え」、以上です。
わかったらさっさと自転車屋に行け!!


はい。

あらためましてこんにちは。高いチャリに乗っている無職、アヤスミです。

これです。

 
 
 
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KAKKOI~~~~~~~~!!!!!!!!!!

これは定価20万円です。高いですか? 高いですね。ぼくも高いなと思います。

店頭でおしっこ漏らしながら一括で買いました。でもいい買い物をしたと思っています。黒主体に赤の差し色って厨二心くすぐるカラーリングしてますよね。

20万円という金額は「高いチャリ界」の中ではそんなに高いほうではありません。

でも格安ママチャリ20台分の戦闘力であることを考えるととてつもない数字ですね。

「自転車=1万円くらい」というチャリ通念をお持ちの方からしたら「バカみてぇ」と思える数字ですね。

人は、ぼくが高いチャリに乗っているということを知ったとき「なんでそんなものに金使ってんの(笑)バカじゃないの(笑)」みたいな反応をします。今まさに画面の前のみなさんもしているであろう。

いやいやいや、高いチャリに乗れよ。

正しい言い方に変えると安いチャリに乗るな。


じゃあ逆に聞きますが、なんでみなさんは「自転車なんて1万円のママチャリで十分」だと思っているのか。

1万円のママチャリがダメとは言いません。ダメとは言いません、と言いながら、以下の文章はひたすらに安い自転車のダメなところを書いていく感じなのでそこのところご容赦の段何卒よろしくお願い申し上げます。

目次


5万円の自転車に乗れ

「ピンからキリ」ということばがあります。服だってパソコンだってギターだって野菜だって美容室だって、その能力差・価値によって値段に差が生じます。

同じように自転車にもピンからキリまであります。

高いモノすべてに価値があるわけではないですし、高ければ高いほどいいというわけではありませんが、だいたい高いモノは性能がよいですし、安いものは性能が悪いです(もちろん「安いのに性能がいいモノ」ものありますし、逆もありますけど)。

高い自転車がなぜ高いかというと、性能と材質がよいからです。簡単な話ですね。まあ多少のブランド料も含まれますが。

たしかに街乗りの普段使いで20万円のロードバイクを使うのは過剰です。スポーツカーでコンビニ行くようなものです。

じゃあ街乗りや軽いサイクリングくらいが目的ならどの価格帯でどんな自転車がいいのかというと

5~10万円あたりの、スポーツバイクブランドが出している街乗り用バイクですね(「ちゃんとした」というところがポイント)。

 

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こういうやつ。
クロスバイクといいます。

マウンテンバイク(悪路走破性)をもとにロードバイク(舗装路走行性)のエッセンスをプラスした、フラットハンドルの廉価なスポーツバイクです。

「マウンテンバイクじゃ舗装路でスピード出ないしちょっとゴツすぎ。でもロードバイクはタイヤ細いしドロップハンドル(前傾になるやつ)はとっつきにくいな~。両方とも普段使いするにはちょっとガチすぎ~」
         ↓
ほな折衷してカジュアルにさせたろ!

ってわけでタイヤが細すぎず太すぎず、マウンテンバイクとロードバイクのいいとこどりをしつつ、5~10万円と安価に抑えられたマシーンがクロスバイクなのだ!

ママチャリに比べると走行性能が段違い! ママチャリの5倍くらい走行性能が高い気がするぜ! 三角形のジオメトリ(設計)でスポーティな印象だネ。

2~3万円のノンブランドのクロスバイクもありますが、その価格帯のチャリンコはパーツがママチャリと同じものだったりします。一応軽いことは軽いしママチャリよりは走りやすいですが、どうせクロスバイク買うならしっかりしたスポーツバイクブランドのものを選びたいところ。

フェラーリとかジープとかのロゴが入った高めの自転車もありますが、あれはなんてことはないチャリメーカーが、なんてことはないチャリにロゴ(の使用権を買って)貼っているだけなので、騙されませんよう。

スポーツバイクの専門メーカーが出している自転車はやはり使用パーツや設計が2~3万円の価格帯のものと比べると段違いです。ちょっと背伸びして、専門店でいい性能のものを買ったほうがよいと思います。

んでスポーツ自転車専門メーカーのクロスバイクは最安値が5万円になるので、だから「5~9万円の自転車を買え」という話なわけです。

「最低でも5万円!? たっけぇ!」と思ったみなさん、高くないです。本当に高くないです。5万円であんなに軽快で素敵なマシーンを手に入れることができるのだから、本当に安い買い物です。

お前ら普段娯楽にじゃぶじゃぶ金使ってるだろ! スマホゲームに課金して、ロックバンドの4500円くらいするロンT買って、煙草吸って、酒飲みに飲んで、シメにラーメンキメてるだろ。600円のタピオカミルクティーとか、インスタに写真載せて胃袋につめて友達と「おいしいね~♡」って感想言いあったらそれで終わりだろうが! 600円のタピオカミルクティーに比べたら5万円のチャリなんて鬼安いわ! ちゃんと税金払えよ!


安い自転車のなにがダメなのか

・車体が重い。

・よって踏み心地が重い。

・サイズが画一的(体にフィットしない)。

・「足」として気軽に盗まれやすい。

・10回パンクを直したら(自転車屋で1200円×10回)新しい自転車買えちゃう。

・放置自転車として撤去された時に2000円払って1万円の自転車を回収するのがアホくさくない?

・お前らどうせ「1万円くらいで買ったものだし」とか思って大事に扱わないだろ。

どうでしょう。


「自転車なんて雑に扱ってナンボの消耗品。短いスパンでの使い捨て」

「撤去されたら引き取りなんて行かない。めんどくさい」

「そもそもモノ全般大事にできないしするつもりもない」

「あえて性能の低い重い自転車に乗るのはトレーニングを目的としているからだ」

「ていうかママチャリが好き!」

「ご高説垂れてんじゃねーぞ無職」

という方は、大丈夫です。それでオッケーです。ブラウザバックでグッドバイ。

ぼくは「自転車なんて雑に扱ってナンボ」という方を否定はしません。本当にしません。なぜならぼくも衣服に関しては本当に無頓着で、安い服しか買わないですし、入念な手入れなどしないからです。700円くらいで買った服を何年も着つづけたりします。

「自転車なんて雑に扱ってナンボ」、いいんじゃないでしょうか。いいと思いますよ。そもそもママチャリって「ノーメンテで雑に使っても(ある程度)大丈夫」なように作られてますしね。
でも自転車の放置はやめような。人に迷惑かかるからな。おれは破れた服を道端に捨てないよ。

雑に乗り回して使い捨てていく方針であればママチャリでいいと思います。

「ムッ、おれはモノ大事に使うがな。そんな奴と一緒にするな」という方、高い自転車向いている人だと思いますよ。

「おれは大事に大事に同じママチャリ10年使ってるぞ!」という方は、いい自転車に10年乗った方がいいです。

1~2万円のママチャリからたった5万円の自転車にグレードアップするだけで「すばらしい走行性能」という恩恵が受けられるわけです。10年使うなら10年間受けられるわけです(とはいうものの、経年劣化で車体はヘタってきますね。10年はがんばっているほう)。


高い自転車の良いところ

・漕ぐのがめっちゃ楽。

・車体が軽いので取り回しが楽。

・同じモデルでもサイズ展開が多様であるため自分の体にフィットしたものを選べる。

・パーツ交換(カスタマイズ)が容易。

・パンクは自分で対処しやすいし、自転車屋で直しても車体金額はそうそう超えない。

・そもそもの車体料金が高いのでメンテナンス代が悔しくない。

・5万円払ったものならしばらくは丁寧に大切に使うでしょ。

すごい! 高い自転車買うメリットがわかったね。
モノを大事にできる人なら高い自転車に乗るべきでは?


さてなぜ漕ぐのが楽なのかというと、

①車体が軽い

ママチャリが20キロのところ、スポーツ自転車は最低11キロ切っています。坂道が楽々です。車体が軽いと漕ぐのが楽。

②そういう設計

フレーム設計……ジオメトリと云います……が「いかに楽に走れるか」を考えて作られています。ママチャリが「漕いで前に進める」イメージならクロスバイクロードバイクは「漕ぐと前に倒れていく」ようなイメージ。
だから前傾姿勢になっているわけですね。クロスバイクロードバイクほど前傾にならないため乗りやすいです。

③メカニカルロスが少ない

ペダルを回す回数……ケイデンスと云います……がなるべく少なくなるように、メカニカルロスが生じないよう作られています。

④自分の体にフィットするサイズを選べる

実はこれも大きく影響します。スポーツ自転車は同じモデルでもサイズ違いが多く展開されています。それで自分に合ったサイズのフレームを選べるわけです。自分の身体にフィットしたフレームってとても快適なのよ。
ママチャリはどんな身長の人でもサドルさえ調整すれば乗れるようになっていて、それはそれですばらしい設計ですけどね。

このように頭のいい人たちが日夜ウンウン考えながら設計しているわけです。その技術料込で5万円で買えるってワケ。安くね?

クロスバイクコスパと走行性能を考えると最高のマシン。

自転車通勤・通学はもちろん、買い出しから軽めのポタリングまで使えるお手軽かつハイパフォーマンスな自転車です。

わかったか! 今すぐママチャリから乗り換えろ!


みんなが懸念してそうなスポーツバイクのデメリット

①カゴと荷台がないと不便

まず、カゴや荷台って本当に必要か? という話。
カゴなんてけっこう重量あるし、そこに荷物入れたらハンドルとられて危ないと思うんだけどなあ。案外なけりゃないであまり困らないですよ。リュック背負えばいいじゃん。
あと荷台なんてお前どうせふたり乗りする時くらいしか使わないじゃん(二人乗りは道交法で禁止されています)。
どうしてもと云う方は、別売りでカゴやキャリアも取りつけられます。泥除けも簡単につけられるよ。

②高価だし盗まれそう

たしかにスポーツバイク専門の窃盗団もいるらしい。
でも鍵の選び方やかけ方によっては盗難をグッと抑えることが可能です。
盗まれるような自転車は盗まれるようなセキュリティになっているんですよ。
街中に駐輪されている自転車は所有者の「まあまさかおれのは盗まれんやろ」って油断したツラが透けて見えるようです。
だから盗まれるんだよ!
鍵はU字ロックとチェーンロックのダブルでいきましょう。

③スポーツバイクって車道に出て運転しなければいけないんじゃないの? 怖いよぉ

自転車はどんな形だろうが原則車道通行。ママチャリだろうがクロスバイクだろうがロードバイクだろうがマウンテンバイクだろうがミニベロだろうがピストだろうがリカンベントだろうが道路交通法では「軽車両」分類で車道通行が基本。
歩道は本来歩行者のためのもの。自転車は車道通行が困難な時のみ歩道の走行を認められていて、その際にも歩行者を優先して走行する義務があります。
だから自転車で歩道走って前の歩行者が邪魔だからってベル鳴らすお前! ベル鳴らすお前! お前だよお前! 今すぐやめろ!!!!!!!
てか歩道走ってる方が事故リスクあるよ。歩行者との接触怖いし段差多いし。車道の方が安全だと思うな。

最後に

高いチャリはすばらしいものだってこと、もうわかったね?

どうも日本という国は「自転車=安物があたりまえ」という考えにとりつかれている雰囲気があります。

まあヨーロッパと違って自転車競技に注目がほとんどないですから、そういったところも関係しているのかもしれませんね。

なぜ国産のよい肉を選び、ブランドの服を身にまとい、美容室で1万円かけるのに「自転車は安物でいいだろ」と思ってしまうのか。消耗品じゃないんだから。

クロスバイクなら10~30キロの「少し遠いかな」くらいの距離はサッと行けちゃうよ。交通費も浮くし健康にいいしなにより楽しいよ。

これだけ言ってもまだクロスバイク買わないつもりですか!? タピオカやめろ! 外食するな! 飲み会ひかえろ! スマホゲームの課金やめろ! エフェクター増やすな!


おすすめのクロスバイク

めちゃくちゃベターなエントリーモデルを紹介します。

グダグダ書いてますが「ファーストインプレッションでビビッときたもの」を選ぶのが一番いいですよ。色が好きとか形が好きとか。これみんな言ってることなので間違いないです。

あと絶対にお店で買いましょう。素人がインターネット通販で自転車を買ってはいけません。絶対にお店で買いましょう。お店で買うとその後のアフターケアもしてくれるのでおすすめです。

ネットで買ったものを持ち込んで嫌な顔されることもあるとかないとか。とにかくもう一度言う、ネット購入はやめろ。


①GIANT ESCAPE R3

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¥52,000 公式サイトへのリンク

コスパの鬼。安心と信頼のジャイアント製。

ジャイアントは台湾のメーカー。世界中のメーカーのOEMを請けメキメキと力をつけました。自社ブランドが育った今でも積極的にOEMを行っています。

自社ブランドももちろんすばらしい出来のものばかり。ツールドフランスの出場チームにも機材提供を行っており何度も優勝に導いています。

このエスケープシリーズはクロスバイクの金字塔ともいえるメガヒット製品です。かなりのロングセラーを誇っています。この価格でこの性能はえげつない。

迷ったらこの一台をチョイスしておけば大丈夫。

難点はみんな乗っていて大衆車感があるところ。新宿渋谷池袋あたりの街中で絶対に遭遇する。それを気にしなければ最高の一台。

上位機種はロゴがかっこよくなります。

 

②GIANT CROSTAR

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¥56,000 公式サイトへのリンク

ジャイアントからもう一台。

エスケープより4000円ほど高く、1キロ軽いです。エスケープより走破性が上がっており、スピードが若干出しやすいモデルです。

エスケープとは択ですが、ぼくはクロスターのほうを選ぶかな~。

③Liv(GIANT) ESCAPE R3 W

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¥52,000 公式サイトへのリンク

ジャイアントの女性向けブランド、リブのクロスバイクジャイアント激推しかよ! まあそれだけこの価格帯では強いってこと。

日本人女性の体形に合わせてフレームやパーツを作っているとのことで、女性はこちらも視野かなと。

てかフレームが小さくてタイヤがかなり大きく見えるな。

④MERIDA CROSSWAY 100-R

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¥55,900 公式サイトへのリンク

こちらも台湾メーカーのメリダ
台湾は自転車が強い。

ジャイアントと同じくOEMで力をつけたメーカーです。台湾は世界の自転車工場と呼ばれています。
ちなみに現在日本人のプロで一番有名な新城幸也選手はメリダのチームに所属しています。

エントリーモデルでこの弓なりのジオメトリは攻めてるなと。メリダかわいいいよメリダ

ジャイアントのエントリーモデルよりは若干高いですがこちらもコストパフォーマンスに優れるブランドです。小柄な人向けのCROSSWAY 110-Rというモデルもあります。

ちなみにぼくの乗っているロードバイク(RIDE3000)もカーボンフレームなのに20万円程度というかなりの高コスパ。需要ないのか、もうラインナップから消えちゃったけど……。

Bianchi C・Sport 1

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¥59,800 公式サイトへのリンク

ビアンキはイタリアのメーカーで現存する最古の自転車ブランド。

ツールドフランス出場チームにも機材提供し好成績をおさめているなど名実ともに自転車界の雄。

見よこの車体の色を! チェレステカラーと呼ばれるこの色はビアンキの象徴。街中で見かけた覚えのある人も多いのでは。老舗なのにこのおしゃれ感。女性からの人気がめちゃくちゃ高いメーカーです。

チェレステカラーは毎年モデルが新しくなるごとに濃淡が微妙に変わります。デザイナーが毎年イタリアの青空の色を見て決めるという話(マジか?)。

より街乗り向けでもう少々安い Pirata 26というモデルもあるけど、よりスポーティでクロスバイクらしい、こちらのC・Sport 1をおすすめしたい。

⑥GIOS MISTRAL

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¥51,000 公式サイトへのリンク

コスパの鬼。ビアンキにつづいてこちらもイタリアのメーカー。

ビアンキがチェレステならこっちは「ジオスブルー」じゃ! ジオスを象徴する色として世界中で有名です。

これ、一番最初に紹介したエスケープよりほんのちょっとですが安いんですね。なのに自転車パーツ界の雄・シマノのパーツを全面に採用している超コスパ

この全面シマノというのがとんでもないことなのです。スポーツバイクはこの自転車のパーツ(まとめて「コンポーネント」と言います)の違いによって乗り心地が変わります。
エントリー~ミドルクラスのモデルだと一流メーカーのパーツとようわからんところのパーツのミックスがほとんどですが、このミストラルシマノ一色。それでエスケープより安い。

……ただですね、まあ諸々弱い部分もあります。ギアクランク(あのペダルの付け根にあるギザギザの車輪みたいなパーツ)にチェーンガードがなかったり、どのフレームサイズでもクランクやステムのサイズが一緒だったり……。あとはまあ、ジオメトリそのものに技術料かかってなさそうですよね。

しかしそれを補うコスパ。一流ブランドのクロスバイクがオールシマノでこの値段。エスケープとミストラルだと……悩むところですね。

⑦Cannondale Quick5f:id:ayasumi40:20200205200927p:plain

¥54,000 公式サイトへのリンク

カンノンダレキャノンデールアメリカのメーカー。

実は会社自体は2003年に倒産してスポーツブランドの傘下ブランドとして名前が残っています。「カーボンキラー」の異名をとるほど質のいいアルミフレームをこだわって製作しています。

衝撃吸収のSAVEマイクロサスペンションなるものを採用しているらしく、段差やデコボコなどが気になる方にはよいのではないかしら。

日本の吹奏楽部は、教育に悪い

吹奏楽部の話をしようと思う。
吹奏楽」ではなく「吹奏楽部」の話である。


わたしは中高と吹奏楽部に所属していた。
木琴フェチという奇特な小学生だったので、それが高じて中学校で吹奏楽部に入部。管楽器がまったく吹けなかったこともあり、希望通り打楽器パートに配属された。
まさかあんなブラック部活とも知らずに。


まあブラックだった。
わたしの学校はいわゆる中堅校で、かつては全国まであと1点、という成績を毎年連発していた古豪だった。
しかしながらわたしが入部した時分は、顧問が代わって2年連続で地区落ちしている状態。

きっと生徒も顧問も周囲から受けるすさまじい重圧の中挑んでいたであろう。
せめて地区大会は突破せねばというプレッシャーがあったと思う。そのため非常に厳しい指導を受けた。
そんな、公立中学校の部活なんだから、適度にやりゃいいものを。

本当につらい3年間だった。
土日祝も休みはなし、朝練はあたりまえ、練習は夜遅くまで。
上下関係はかなり厳しい。言葉遣いひとつ誤るだけでめちゃくちゃ怒られる。
なにか失敗すればすぐにミーティングで吊し上げだ。
書いていて吐きそうになってきた。

上下関係が厳しい、と前述したが、これは親戚同士であろうが兄弟同士であろうが適用された。
上級生であれば、たとえ兄であっても「○○(名字)さん」と呼び、敬語を使わなければならないのである。
わたしにはひとつ下の妹がいるのだが、スポーツが得意だったはずの彼女は魔が差して(熱心すぎる勧誘を受けて)吹奏楽部に入部してしまった。
ただでさえ思春期の少年など家以外では家族との接触を避けたいものなのに、部活でずっと一緒で……名字で呼ばれ敬語を使われるのだ。これは本当にストレスだった。
なお、妹は高校に入学してからは陸上部で中距離走の選手として花を開かせることになる。最初から陸上やってればよかったのに。

わたしはただ楽しく木琴が叩きたかっただけなのだ。
「なんでこんな厳しい部活に……」と本当にゲロを吐きながらつづけることとなった。
ブラック部活は簡単にやめさせてくれない。
遊びにも行けず(田舎なので遊ぶ場所はないが)、3年間を捧げた。
軍隊と一緒で、みんな高度な洗脳を受けかのように部活に従順になっていた。
1年も経てば「休みなんていりません!」と声たかだかに言うような人間が出来上がる。
洗脳にかからなかった人間・途中で目を覚ましてしまった人間にとっては地獄みたいな環境であると言えよう。


そんなわたしのコンクールの成績はと言うと、
1年生:地区大会金賞(代表権なし)
2年生:北海道大会金賞(代表権なし)
3年生:全国大会金賞


おごりなく、わたしの代は全盛期だったと思う。たまたまだけどね。
謙遜でもなんでもなくわたしは普通に下手だったが、運がよかった。

全国大会金賞。
人はこれを華々しい成績だと思うかもしれない。
しかしわたしは当時、まっっっっったくうれしいと思えなかった。いま回顧しても誇らしいとは思えない。
結果発表で「ゴールド金賞」と言われても、涙ひとつこぼせなかった。普段が、日常が苦行過ぎたので。
「あんだけ苦しんだんだから、全国金くらいもらえなきゃ困るよ」という気持ちだった。「がんばったから、順当に獲れた」という感覚だった。
周りの女子らがキャーキャーよろこんでるのを見てめちゃくちゃ冷めたくらいだ。思春期特有の逆張りとかではなく、本当に心がブチ壊れていたのである。
こんな悲しい話ある? こんな価値のない全国金賞ある?

多感な時期にえげつね~体験をしたので確実に今の人格に影響を及ぼしている。
引退したあとの解放感はすさまじかった。こんなに生活って楽だったっけと思った。

音楽は好きだったので、高校に入っても吹奏楽部に入った。
高校の部活はすべてが適度にゆるく、本当に楽だった。楽しかった。
コンクールは3年連続北海道大会銀賞だったが、それでもよかった。
コンクールに重きを置いていなかった。
やっぱり人間、楽しいところで楽しいことをやるのが一番なのだ。

前置きが長くなりすぎた。
「日本の部活吹奏楽、教育によろしくない説」を話していこう。


諸悪の根源は全日本吹奏楽コンクールにある。
とまでは言わないけど、わりと大きくはある。
日本の吹奏楽はコンクールに重きが置かれすぎている。
利権と忖度が見え隠れする、あの吹奏楽コンクールに。

 

 

強豪校に入ってもキャリアパスにならない

コンクールで"勝てる"吹奏楽部を作り、それを目当てにした学生を集める」のは日本全国の私立高校が行っている生徒集め戦略である。

学校は優秀な指揮者(教員)を誘致するし、演奏技能が高い学生を推薦で入学させたりする。
そして全国大会を目指す。全国大会に出場してよい成績をおさめれば、「わたしもあの学校で演奏して全国に行きたい!」という翌年度の入学生も増える。
いわゆる部活ビジネスである。


スポーツと違ってせつないのは、吹奏楽コンクールの全国大会に出場したところで、なんのキャリアパスにもならないことだ。


いわゆるコンクール強豪校(音楽に強いも弱いもないんだが)の吹奏楽部を卒業したからといって、プロになれるわけではないし、音大に入れるわけではない。
キャリアパスにもならない、たかだかアマチュアのコンクールに貴重な若い時間と親の金をかけるのは悲しすぎると思わないだろうか。


「技術的には上手くなるので、音大受験の際は有利にはなる」という意見もあるかもしれない。が、そんなことはない。
そりゃまあ吹奏楽コンクール強豪校を卒業して音大生になりプロになる人もいる。

しかしである。本当に楽器のプロを目指すのであれば「吹奏楽」に集中したり「吹奏楽部」の活動にかまけている場合ではない。
音大に入るにはピアノを弾いたり音楽理論を勉強したり古今東西の曲を研究・演奏したりしなければならない。さらに学校の勉強も人並み以上にできなくてはならない。
コンクール強豪校でハチャメチャな量の練習をした上で音大入試用の勉強ができるだろうか? できないことはないし、している人もいるし、それをやってのけた知り合いもいるはいるが、プロを目指すのであれば非効率だろう。

学校によってはプロの外部講師を招くこともあるので、たしかに良質な指導を受ける機会にはめぐまれるかもしれない。
しかし結局は団体の中のひとりとして、吹奏楽コンクールで勝つための指導をされるのだ。「コンクール映え」の演奏になるよう仕上げられるのである。

吹奏楽コンクール強豪校を卒業したところで「コンクールで勝てる人間」が出来上がるだけだ。30分の交響曲を初見で演奏できるようにはならない。

プロへのキャリアパスにならないどころか、日本の吹奏楽部がやっている「音楽」は、本来の音楽表現とはかけ離れたところにあり、それ故に「教育」に悪い。

 

吹奏楽部の行儀の悪さ

では「コンクール映えの演奏」とはなにか。

日本の吹奏楽において横行している悪行はおもに2点
①楽曲の意図を無視した極端なカット
②楽譜の指示を無視した無断で独自の編曲行為
である。

①楽曲の意図を無視した極端なカット

吹奏楽コンクールの総演奏時間は12分である。これを超過すると失格。
課題曲と自由曲をこの12分間の中で演奏しなければならない。
課題曲は3〜5分程度。残りの時間で自由曲を演奏する。


この自由曲については、各学校本当にやりたい放題である。


自由曲を演奏できるのは7〜9分程度。
この時間内に収められるよう、各学校は自由曲に「カット」を施す。
本来であれば演奏時間に20分要する曲を7分に短縮させたりするのである。
非常によろしくない行為だ。
ただ「最初から時間内に収まる曲を選曲をしろ」というのもそこそこ無理がある話なので、これはまあある程度ゆるされてしかたない(ある程度、である)。


問題は、あまりに強引なカットの横行である。


吹奏楽コンクールでは、多楽章構成の交響曲がカットや継ぎ接ぎを施され「派手なところをかいつまんだハイライト版」として演奏されているのだ。しかもテンポを爆速にしたりして。


もともと30分あるような曲が7分に短縮させられてしまう」と聞けば、原曲とはもはやまったく別物の印象となってしまうことは、みなさんも想像に難くないだろう。
これは著作権侵害と言っても過言ではない。素人による「無断の編曲」である。


そりゃ「なにがなんでも時間内に収まる曲を選曲をしろ」とは言わないが、わざわざ長大な曲を選ぶのはあまりにナンセンスである。
最近だとマッキー作曲の交響曲『ワインダーク・シー』がよく演奏されているが、あの曲が三楽章構成だということを知っている人はどれだけいるのだろうか?
全国大会で初演された団体の「名演」のカットが丸々参考になったりするのが、また行儀が悪い。


教育とは本来、多楽章構成の交響曲をじっくり嗜み、分析し、カットせず演奏することではないだろうか。
ちなみに時間無制限の定期演奏会などでも「カット」は行われる。なんと嘆かわしい。


特に標題音楽にも関わらず作曲者の意図を完全無視するカットは本当にひどい。


天野正道作曲の『おほなゐ 〜1995.1.17 阪神淡路大震災へのオマージュ〜』はひどいカットがよく見られる例のひとつである。
天野先生がどう思ってるかは知らんがわたしが作曲者であれば怒るようなカットばかり。でも天野先生はコンクール文化には寛容そうだなあ。

『おほなゐ』はタイトルの通り阪神淡路大震災の情景を描いた曲である。


www.youtube.com


この曲は神戸の活気あふれる街を表現するポップスパートが序盤にある。その曲中、パーカッションと低音楽器の強奏が前触れなくいきなり割りこんできて一気に激しいパートへ変容。「平和が地震によって一瞬で瓦解する」様を描くのだが、多くの団体はこの「地震が起こる神戸の平和な街」の描写であるポップス部分をカットしてしまうのだ。
前奏部をそこそこに演奏したあと、なんの前触れもなく、いきなり地震を起こしてしまうのである。標題音楽として成り立っていない。成り立たせる気がない。ちなみにこの『おほなゐ』も三楽章構成で30分ほどある曲である。


他にも例を挙げるとキリがない。いきなり処刑される『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』とか……。
吹奏楽ではなぜか「なんで作曲家の意図を考えずにここだけ抜粋したの?」といったことがよく行われているのだ。

②楽譜の指示を無視した無断で独自の編曲行為

まあカットに関してはルール上いたしかたない部分もある。それでも長大な曲を無理矢理まとめるのはどうかと思うので、短い曲を選び、極力カットをせずに演奏するべきだと思うが。
カットはまだ1000000000歩ゆずるとして、派手に曲を魔改造するのは本当にわけがわからない。


曲の最後の一音をフェルマータにしたり、本来楽譜には存在しない打楽器を「派手になるから」という理由でつけたしたり、トロンボーンがソロをとるところをトランペットに変更したりと、「それやったらコンクールの点数が上がるんですか?」みたいな「編曲」の数々。
これがはたして教育か、と。


吹奏楽コンクールの指導者なんてのは、つまるところアマチュア音楽団体の音楽監督でしかない。
そんなアマチュア人間たちが我が物顔で「編曲」を行うのである。
プロの作曲家からしたら、たまったもんじゃない。


近年、全国大会では演奏されないことはないんじゃないかというド定番曲に、高昌帥の『ウインドオーケストラのためのマインドスケープ』がある。
この曲を楽譜通りに演奏する学校は本当に少ない。「改変することがスタンダード」となっている、奇妙な事態なのである。

この曲は本来、曲のラストは低音楽器の突き刺すような重苦しい音で終止する。

 


ウインドオーケストラのためのマインドスケープ -Mindscape for Wind Orchestra-

 
上記の動画が正しい楽譜通りの演奏。

しかし、コンクールではラストに高音を付け足してド派手に終える団体がほとんどなのである!!!!!!!!!!!なぜだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

一番最初にどっかの団体が高音を付け足したのを、どっかの団体が真似して、さらにまた別の団体が……という流れなのだろうが。なぜ、アマチュア団体の改変を参考にしてしまうのだろう。
この曲の最後は各団体異常なくらいイジり倒している。コンクールでは改変されずに演奏されることのほうが少ない、本当にかわいそうで稀有な例である。
あまりの改変されっぷりに「ド派手な高音で終わるのが通常」と思いこんでいる人も少なくはない。


こういったことがよしとされているのが日本の吹奏楽部である。

野球で喩えると「悪手な戦法や外道な戦法がよしとされ、プロでは通用しないようなヘンテコな打法投法を教えられる」というのが、日本の吹奏楽部である。
本当に極端に言うとこう。もちろん全部が全部そうとは言わんが、残念ながら多くはそんな感じだ。
日本の吹奏楽部はまっとうな音楽人を育成するにはあまりにも不適切な環境と言える。

「音楽は心だ」
「普段の生活態度が音に出る」
と、全国大会出場常連校の指導者がテレビで言っているのを前に観たのだが、彼は作曲家からクレームが入るほどの楽曲改竄常習犯である。


またわたしの所属していた吹奏楽部の話で申し訳ないが、中学生のわたしから見ても奇天烈なカットをほどこしたり、「迫力が出るから」と言って打楽器を追加したりしていた。もちろん反論なんてできなかったが。
強豪校に限らず、田舎の公立中学校でもそのようなことは横行している。もしかしたら田舎の無名中学校のほうが行儀が悪いかもしれない。

そういえばロクに打楽器の奏法指導なんてされなかったな。そのくせダメ出しはめちゃくちゃ多かったけど。それで全国大会金賞までいったの、よく考えたら驚異的なことだな。今コンクールの映像見るとティンパニのセッティング間違えているんだよな。
うちの吹奏楽部はどう見ても管楽器バンザイ、打楽器はカス、みたいな方針だった。トレーナーは「クラリネットがよければ勝てる」が口癖で実際にクラリネットはガチで贔屓されていた。まあ実際にそれで結果出してたけどさ。
ドラムセットやティンパニ骨董品だったからな。顧問にもトレーナーにも「打楽器のヘッドは消耗品であり、交換する必要がある」ということは知らなかったらな。ティンパニのヘッドなんて10年は使われていて謎のベトつきがあったからな。寄付金で楽器買えることになったとき中学生には身分不相応なクソ高い30万円くらいするクランポンクラリネットが2本もあてがわれたのに骨董品であるドラムやティンパニは交換されずに「今あるものはピッチが悪くて管楽器が吹きにくいから」とかいう理由でシロフォンがやってきたときにはガチで絶望したクソクソクソクソクソクソクソクソ(怒りのあまり太文字で強調)。

まとめ

とまあ、このように、「吹奏楽コンクール」は生徒集めのための技術オリンピックの側面が大きく、そこに至る過程は本当に精神修行である。トラウマも生まれる。
あとみんな燃え尽きて楽器を続けないがち。


あまりにも「卒業後になにも残らない」現状はいただけない。
私の中学から全国常連校に行った同級生は、大学に入るやいなやあっさりと楽器をやめてしまった。彼女は「部活動が好き」で「そこで活躍している自分が好き」で「全国大会に行って達成感を得たかった」だけなのでは? 本当に音楽が好きだったのだろうか?


このような子供は多いらしい。部活が終わったらそれでおしまい、吹奏楽部でおしまい、という子供が。
もちろん楽器をつづけるのはかんたんなことではないが、興味のあることには関心をもちつづけるはずなのだ。
音楽は、演奏しなくても聴くことはできる。なのに、部活卒業後には演奏会にすら行かなくなる者がほとんどだ。
たまに曲を聴くにしてもプロの演奏ではなくコンクール全国大会常連団体の改変やカットをYouTubeで聞いてしまう。


こうして「吹奏楽部」で育った人間は「吹奏楽コンクールでよく演奏される曲」と「ポップスステージでよく演奏されるポップスアレンジ曲」だけで世界が完結してしまうのだ。
クラシックにも現代音楽にもジャズにも興味をしめさない。
リテラシーが、あまりに低い。


そしてなまじ自信だけはついているから、すぐに音楽的なことで他人にマウントをとってしまう。悲しいことに、これが「教育」の結果なのである。
キャリアパスにならない云々はおいておいて、リテラシーやモラルの低い人間が濫造されつづけているのは本当によくないことだと思う。もちろん吹奏楽コンクールや吹奏楽部が完全に悪者というわけではない。


強豪校の顧問だって、そりゃ全員が音楽的犯罪者というわけではない。中にはすばらしい指導をしている方もいらっしゃる。
また強豪校の指導者はビジネスのためにコンクールで勝つバンドを作らなければならないので、しかたない部分も大きいかもしれない。それを容認している業界は問題だが。

吹奏楽部は日本全国の小中高校に部活動として設置されている。
部費さえ払えば安価に器楽合奏にとりくめるのはすばらしいことだ(吹奏楽目的で私立校に行ったりすれば莫大な金はかかるが)。

それだけに、だからこそ、教育に悪いことを行ってはならないと、わたしは思う。
曲の改竄以外にも、団体間でのコピー楽譜の貸し借りとかね。
そして吹奏楽民たちは(もう大人になってしまった人も)、吹奏楽部の指導に騙されず、もっと吹奏楽"部"以外の広い音楽の世界に興味をもってほしいなと願う。


そんなわけで吹奏楽関連の記事、読み応えのあるもの他にもありますので、ぜひ読んでいってください。

 

ayasumi.hatenadiary.jp

 

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新海誠全作品ふりかえり ~『天気の子』は『君の名は。』の延長にある作品だという話~

※この記事には『天気の子』や新海誠の旧作品のネタバレが含まれます。ご注意ください。

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貧乏人で出不精なので、普段はあまり映画館に行かないおれだが、先日『天気の子』を観に行った。
新海誠はそこそこに追いかけている映画監督のひとりだからである。

新海誠の映画をはじめて観たのはもう何年も前になる。
君の名は。』で大ヒットするよりずっと前だ。
べつに古参自慢ではない。というか古参というほど大昔から観ているわけではない。そもそもそこまで熱心なファンでもないのだ。
でもそのへんの人よりはちょっとだけ造詣が深いつもりだ。

新海誠は「ちょっとしたオタクの間でだけ有名なアニメ映画監督」だった。
萌え豚アニメを楽しめないオタクが
新海誠、いいよね……」
「うん、いい……」
とボソボソ語りあうような、そんな作風だったと思う。

そんな陰キャオタク御用達アニメ監督新海誠は2016年に公開された『君の名は。』でその知名度を一気に押し上げた。

君の名は。』は非常に戦略的な映画だった。
後述するが「売れるため」に作られた映画だ。

結果として、めちゃんこ売れた。

制作サイドもきっと売れると見込んでいたに違いなく、
それまでの新海誠作品は配給されている映画館がそもそも少なかったのだが、『君の名は。』は最初からそこそこの規模で強気に展開された。

結果として、アホほど売れた。

そして『君の名は。』を観た新海誠オールドファンは、悲しみ、嘆いた。

君の名は。』はだれがどう見ても「売れるため」の要素をつめこんだ映画であり、それまでの新海誠作品とはあらゆる意味で作風の断絶があったからだ。
とても同一人物の映画とは思えない。いやそりゃもちろん新海誠監督作品という前提で観ればどう考えても新海誠の作品なのだが。

オタクは自分が好きだったものがメジャーになると悲しむ習性をもつ。なんてめんどくさくて身勝手な生き物なのだろう。

君の名は。』はとてもわかりやすく、スケールの大きいボーイミーツガールファンタジーであったため、それまで新海誠の名前など聞いたこともなかった多くの人間が映画館に足を運んだ。

そして「カップルが観る映画」になった。
新海誠オールドファンは、悲しみ、嘆いた。なぜなら新海誠ファンの多くは童貞クソ陰キャだからである。

そんなオタクたちだが、最近上映された『天気の子』を観て狂喜乱舞しているのだという。

「おれたちの新海誠が帰ってきた」と。


は?????????????????????


Twitterにあふれるそんな感想群を眺めながら、おれは「クソ半端オタクどもめ」とカチキレた。


「『君の名は。』とはまったく毛色が違う作品だな……。これはライト層にとっては試される映画かもしれない」

あ????????????????????????????????????

なんだそのオタク特有の「この作品は一般人向けではないですね^^」みたいなマウントは。なんで自分が特別な存在だと思ってるんだよ。
化物語』観る前に『戯言シリーズ』読めクソボケバカ野郎が。『ニーア オートマタ』プレイする前に『ドラッグオンドラグーン』プレイしろクソボケバカ野郎が。ニワカをバカにするお前らもまたなんらかのニワカじゃボケ。

とにかく『天気の子』だが、おれにはどうも「広く大衆に親しまれるために作られたエンタメ映画」で『君の名は。』の延長にある作品としてしかとらえることができなかった。

たしかに、『君の名は。』がエンタメ度100だとしたら『天気の子』はエンタメ度80くらいの作品だ。
でも、80は、あったろ? 十分にエンタメ傾倒している作品だったよな? オタク向けではなかったろ?
オタクが好むフォーマットは用いていたが、大衆に受け入れられないなんてことはないだろ?
てかオタクが好むフォーマットである以前に『君の名は。』フォーマットじゃね?

たしかに『天気の子』は『君の名は。』よりは従来の新海誠っぽさを取り戻していた。でも、若干というレベルだったと思う。
オールドファンが手放しで「原点回帰だ!」と叫ぶことのできる作品ではない、と思う。

世間の多くのオタクの感想:今作でライト層を置き去りにした! 大衆に迎合しない姿勢かっこいい!

おれ:ああ、『君の名は。』路線でいくわけね。いいんじゃない。広い層に親しまれる良質なエンタメって感じで。

えっ、なんでこんな乖離が起きているんだ。おれがおかしいのか?

とりあえず、新海誠作品を順番に振り返ってみようや。


目次

 

 

 

ほしのこえ

2002年2月公開

 


ほしのこえ 予告編 (The Voices of a Distant Star)


私たちは、たぶん、宇宙と地上にひきさかれる恋人の、最初の世代だ。


~あらすじ~
2039年NASAの調査隊が火星のタルシス台地で異星文明の遺跡を発見し、突然現れた地球外知的生命体タルシアンに全滅させられた。この出来事に衝撃を受けた人類は、遺跡から回収したタルシアンのテクノロジーで、タルシアンの脅威に対抗しようとしていた。
2046年、中学3年生の長峰ミカコと寺尾ノボルは互いにほのかな恋心を抱き、同じ高校への進学を望んでいたが、実はミカコは国連宇宙軍のタルシアン調査隊――リシテア艦隊に選抜されていた。翌2047年、4隻の最新鋭戦艦と1000人以上の選抜メンバーからなるリシテア艦隊は地球を離れ、深宇宙に旅立つ。離れ離れになったミカコとノボルは超長距離メールサービスで連絡を取り合うが、艦隊が地球から遠ざかるにつれて、メールの往復にかかる時間も数日、数週間と開いていく。


は?
ハヤカワ文庫? もしくは中二病患者のノート?
最終兵器彼女』と似てますよね。こういうのが流行ってたんですよね。

新海誠の鮮烈な商業デビュー作である。
最新の2作と比べるとギャップがすさまじくね?

25分のフルデジタルアニメーションの監督・脚本・演出・作画・美術・編集のほとんどを新海誠監督がひとりで行なった上、主人公の声優まで担当してしまった作品である。正気の沙汰ではない。

新海誠の作家性を象徴するものとして「凝りすぎた設定」というのがある、とおれは勝手に思っている。
たった25分のアニメ、筋立ては「とある事情によって別離した男女が会えないまま終わる」というだけの地味なものなのだが、設定がめちゃくちゃ凝っていてすごい。
詳しくはWikipediaを読んでください。

 


雲のむこう、約束の場所

2004年11月公開

 


雲のむこう、約束の場所 予告編 (The Place Promised in Our Early Days)


あの遠い日に僕たちは、かなえられない約束をした。


~あらすじ~
1996年、日本は南北に分断されていた。世界の半分を覆う共産国家群「ユニオン」は「エゾ(北海道)」を支配下に置き、島の中央にとほうもなく高い、純白の塔を建造しつつあった。青森県津軽半島に住む中学3年生の藤沢浩紀と白川拓也は異国の大地にそびえる塔にあこがれ、飛行機で国境の津軽海峡を越え、塔まで飛んで行く計画を立てていた。そのための飛行機ヴェラシーラも、山の上の廃駅の格納庫で製作が進んでいる。犯罪以外の何ものでもないこの計画は他言無用とされていたが、浩紀が口を滑らせたせいで、クラスメイトの沢渡佐由理にばれてしまう。さいわい佐由理はヴェラシーラに強い関心を持ち、計画の共犯者になってくれる。浩紀たちと佐由理は、「ヴェラシーラが完成したら佐由理を塔まで連れていく」と約束を交わす。ヴェラシーラが完成に近づくにつれ3人の仲も深まるが、佐由理はある日、塔の夢を見る。そして突然浩紀たちの前から姿を消す。佐由理をなくした浩紀たちはヴェラシーラの製作を止めてしまう。いまや、ヴェラシーラは佐由理のためのものでもあったからだ。
3年後の1999年。拓也は、塔の破壊を企てる反ユニオン組織ウィルタ解放戦線に内通し、在日米軍のアーミー・カレッジで塔の秘密を…………


ストップ、ストップ。どうよこれ。やべーあらすじだよな。

でも物語はいたって地味なのだ。

北海道が侵略されているものの、主人公はべつにレコンキスタ活動をするわけではない(レジスタンス団体は出てくる)。
ドンパチに参加するわけではない(ドンパチ地帯を通過したりはする)。
なんらかの思想や信念をもっているわけではない(相棒はもっている)。
ただ、手作り飛行機に乗って雲のむこうの塔に行きたいだけなのだ。

そしてそこそこ地味に物語は終わる。『ほしのこえ』よりは派手だけど、それでも地味だ。
そう、新海誠作品は、地味だったのだ。
「派手さはないけど、すごいものを観たな……」という気分にさせる物語を描く人だった(過去形)。

この映画はいわゆるセカイ系というやつで、「きみ(ヒロイン)とぼく(主人公)」の物語が世界の命運とリンクしているという、90年代の終りからゼロ年代に流行ったフォーマットである(そういえば最近ってあまりセカイ系な作品って見かけないなあ)。
このフォーマットを使いつつ、ポップでキャッチーに仕上げた作品が『君の名は。』『天気の子』なのである。
あとは物語の構造が村上春樹リスペクト感強い。

この映画は本当に全体の雰囲気がすばらしい映画だ。
「全体の雰囲気がいいよ」の語彙力ない感すごいけど、マジで全体を包む雰囲気が最高なのだ。それ以外に適切な言葉がない。世界観設定もかなり中二心をくすぐってくる。
主人公の藤澤浩紀は俳優の吉岡秀隆が演じている。上手くはないんだけど、こう、良い。

個人的に好きな映画トップ5に食いこむ作品。ぜひ観ろ。

 


秒速5センチメートル

2007年3月公開

 


「秒速5センチメートル」予告編 HD版 (5 Centimeters per Second)


どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか。


~あらすじ~
東京の小学校に通う遠野貴樹と篠原明里は精神的に似通っており、互いに「他人にはわからない特別な想い」を抱き合っていた。クラスメイトたちのからかいを受けながらも一緒に時間を過ごすことが多かったふたりだが、明里の父親の仕事の都合で小学校卒業と同時に明里は栃木へ転校してしまい、それきり会うことがなくなってしまう。貴樹が中学に入学して半年が経過した夏のある日、栃木にいる明里から手紙が届く。それをきっかけに文通を重ねるようになるふたり。
やがて貴樹も種子島に引っ越すことなり、ふたりの距離は物理的にも精神的にも離れていく。


鬱映画として名高い。

山崎まさよしのミュージックビデオとしても名高い。

君の名は。』が公開される前までは氏のもっとも有名で人気のある作品であった。
3章からなる連作短編であり、全体的に男がずっとウジウジしている。

おれも初めて見た時は多感なお年頃だったということもあり、結末のあまりの悲しさに食欲をなくしてしまった。

これもまた地味な筋立ての映画なのである。

特に大きなドラマがあるわけではない。ひたすら美しい風景とジメっとした雰囲気が画面を支配している。それで終わり。
ほしのこえ』や『雲のむこう、約束の場所』のようなSF世界ではなく、リアリズム世界の話である。セカイ系ではない。非常に地味である。
地味なはずなのだが、確実に胸に"くる"作品だ。
嫌なことがあった日の夜ひとりで部屋をまっくらにして観ろ。

最後に流れる山崎まさよしの『One more chance,One more chance』がとてもよい効果を出している。今考えると「RAD早回し」の原型なのだろうか。

 


星を追う子ども

2011年5月公開

 


星を追う子ども(予告編)


それは、“さよなら”を言うための旅。


〜あらすじ〜
幼い頃に父を亡くした明日菜は、母と二人で暮らしている。ある日、秘密基地へ向かう途中、見たこともない怪獣に襲われたところを「アガルタ」から来たという少年・シュンに助けられる。翌日、秘密基地で再会し仲良くなった二人はまた会う約束をするが、後日シュンが遺体で発見される。
シュンの死に実感が湧かない明日菜は、新任教師の森崎の授業で聞いた「死後の世界」に強い興味を抱く。世界各地には地下世界の伝承が残り、シュンが故郷であると語ったアガルタもその一つで、そこには莫大な富や死者の復活すら可能にする技術があるという。
その日の帰り道、明日菜は秘密基地でシュンに瓜二つの少年・シンと出会う。彼は兄が持ち出したアガルタへの道の鍵となる石「クラヴィス(clavis)」を回収しに来ていた。するとそこに武装した兵隊と森崎が現れる。森崎はアガルタの秘密を狙う組織「アルカンジェリ」の一員だった。彼の目的はアガルタで亡妻・リサを蘇らせることであった。シュンが遺したクラヴィスを回収したシンはアガルタへと去り、残された明日菜も森崎についていくことを決め、ミミを加えた二人と一匹は、広大な地下世界を旅することとなる。


これまでとはだいぶ毛色が違いますね。
今のところ一番「らしくない作品」である。

「『君の名は。』で大衆に迎合しやがって!」と文句言っていたオタクはこの映画についてどう思っているんだ? どう思ったんだ?
これがヒットしていたら怒り狂っていたのかもしれないが、『星を追う子ども』はまったく話題にならず、興行収入も2,000万円程度だった。まあ震災直後だったというのが大きいかもしれん。
そんなわけで「売れなかったからオッケー」ということでオタクに赦されている作品である。まったく、オタクというのは本当に身勝手な生き物だと思わないかね。

これまではある程度精神的に成長している人間でなければ味わえない作品ばかりだったが、『星を追う子ども』は全年齢対象版新海誠みたいな映画である。ひょっとするとここから映画に対する意識が変わったのかもしれない。

この作品一言で表すと「地味なジブリ」である。
宮崎吾朗監督作品だと言われても違和感がない(駿ではなく)。実際、意識的にジブリや日本の伝統的な映画をオマージュしたとのことである。
舞台設定や舞台装置を考えれば「派手になる作品」のはずなのだが、「地味なファンタジー映画」というところに落ち着いてしまっている感がある。もちろん従来作品と比べるとエンターテイメントしていて、ヤマもオチもあるのだが、カタルシスに欠ける。

これまた『ほしのこえ』『雲のむこう、約束の場所』『秒速5センチメートル』と同じように、ハッピーエンドというわけではなかった。若干のさみしさやせつなさを残して終わる。
設定の作りこみは相変わらずすさまじい。

もちろんファンからは賛否の分かれる形となり、ショックを受けた新海誠は寝こんでしまったらしい。
プロデュースやマッチングの大切さを痛感し、これ以降、アニメーション監督としてやっていくことを決意したとのことで、この失敗?がなければ『君の名は。』は生まれなかったのかもしれない。

 


言の葉の庭

2013年8月公開


映画『言の葉の庭』予告編映像


"愛"よりも昔、"孤悲"のものがたり。

~あらすじ~
靴職人を目指す高校生の秋月孝雄は、雨の日の1限は授業をサボって、庭園で靴のデザインを考えていた。ある日、タカオはそこで昼間からビールを飲んでいる女性、雪野百香里に出会う。見覚えのある顔であったため、どこかで会ったかとタカオが尋ねると、ユキノは否定し、万葉集の短歌 「雷神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」 を言い残して去っていった。
こうして、雨の日の午前だけの2人の交流がはじまる。タカオは靴職人になる夢を語り、味覚障害を患うユキノは、タカオの作る弁当の料理に味を感じられるようになる。ある日、ユキノはタカオに「靴作りの本」をプレゼントし、タカオは今作っている靴をユキノのために作ることにする。
その後梅雨が明け、しばらくの間2人は逢わなくなるが、2学期になった夏のある日、タカオはユキノの秘密を知る。


全国23館で料金は1000円均一ながら、公開3日間で興収3000万円というヒットを記録した。最終的な興行収入は1.5億円。

『秒速』にちょっとだけ回帰しつつ明るい作風となっている。前作があまりにアレだったためファンは歓んだ。
主人公はなよなよしつつ直情的なところもあり、今まで出てこなかったタイプだ。

やはり筋立てはまあまあ地味である。題材や舞台の都合上地味にならざるをえないし、派手にするわけにはいかないのだが。
地味地味言ってますがマジで良い作品だよ。なんかこう、ここで書けることは少ないのだが。

これまでと違って「わりやすい」作品でもある。だれも混乱することなく鑑賞を終えられるだろう。
それでもやっぱり「ハッピーエンド!」にはならなかった。ビターエンドくらい。

おれはこの映画を観たとき「新海誠にしては明るい映画だな。たまにはこういうのも描きたいんだね」と思った。
まさか次作であんなことになるとはだれが想像しただろうか。

ところで『言の葉の庭』は50分弱という短い時間で新海誠の性癖が遺憾なく発揮されている。つづく『君の名は。』『天気の子』で確信したけど、あいつ絶対姉萌えだわ。

 


君の名は。

2016年8月公開


「君の名は。」予告

まだ会ったことのない君を、探している。

~あらすじ~

みんな観ただろうし割愛。


なにが起きた。

川村元気によるプロデュース、田中将賀によるキャラクターデザイン、RADWIMPSの起用、人気俳優の起用、大規模な興行、プロモーション。
売れるために作られたサイボーグかな?

公開前から、オタクは予感していた。
君の名は。』は、今までと違う作品だと。

ふたを開けてみると、ド級のエンタメであった。
とにかく派手な映画だった。

君の名は。』は超絶ブームを起こした。
異例のロングラン上映。海外でも大ヒット。興行成績は『千と千尋の神隠し』に次ぐ、邦画史上二位。全世界興行収入は邦画では一位である。

新海誠は一躍時の人となり、日本を代表するクリエイターになった。
あれ? 書いていて泣きそうになってきた。

オタクは……おれは、そのさまを呆けて見ていた。
陰キャ向け?の地味良い映画を丁寧にコンスタントに作っていた新海誠が、ずいぶん遠いところまで行ってしまったからだ。

おれは思った。
頭のいい大人が売れる映画をがんばって作ると売れるんだなあと。

君の名は。』はなによりもカタルシスが優先された映画だ。ジャンクと言ってもいい。
いちいち派手なのだ。
これまでのような地味映画ではない。

物語の辻褄や事象に対しての蓋然性などかなり無視したつくりになっている。今までの作品はそういったところは丁寧に処理されたり、処理していると見せかけてされていなかったりしたのだが、『君の名は。』はおざなりな部分が非常に多い。
それはきっと物語を、エンターテイメントであることをなによりも優先させた結果なのだと思う。
実際、おれは観ている間は違和感とかどこかに消えてどうでもよくなってしまったし。

「RAD早回し」もある種そうだ。
物語の一部分をRADWIMPSの楽曲を流しながらダイジェスト的に断片的に描写するアレ。
上映時間も「できるだけ短くする努力をした」のもそう。
「冗長にならない」ことを念頭につくられている。

君の名は。』はある種集大成的な作品といえる。

まず「セカイ系」のフォーマットを用いているのは『雲のむこう、約束の場所』から。
時間軸のすれ違っているメールのやりとりは『ほしのこえ』を思い出させる。
宮水神社の御神体の風景はなんとなく『星を追う子ども』で見た気がする。
最後の、電車で主人公ふたりがすれ違う場面は『秒速5センチメートル』だ。

それまでの作品と決定的に違うのがラストシーンだ。
未来への希望を持って終わる、ハッピーエンド。

おれは衝撃を受けた。というか、みんなもそうだろう?
どうせ「ふたり」は会えないまま終わるのだろうと思ったら、会えたのだ。

これまで新海誠作品にふれてこなかった人は、あのラストに違和感など覚えない。
「てか再会するのが普通っしょ?」と言うかもしれない。

いやいやいや新海誠はいつも人と人を引き裂いてきたのだ。
それでさみしさとせつなさを残して映画が終わっていたのだ。

でも、ふたりはまた会った。
会えないと見せかけて、会った。

新海誠の初稿だとラストシーンがどうなっていたのか非常に気になるところだ。なんかそれについて話していたインタビュー記事なかったっけ。
この記事を書いた3日後にアップされたインタビューで明言されていました。初稿から明るい終わり方だったらしいです。

あの終わり方は、これまでの作風やファンとの決別なのかなと思った。
これまでのあらゆる作品の要素を取り入れつつ、最後の最後で「これまでではありえなかった」再会エンド。
「もう次の場所に行きます」というメッセージなのだろうか、とおれは思った。
そんなことべつに考えていないだろうけど。

それにしても、こんなに派手に売れたあとは非常にやりづらいぜ。
なにせ誇張ではなく「歴史に残る作品」となってしまったのだ。

次回作がどんな作品になるのか、考えられるのはざっくり分けて3パターン。

A.『君の名は。』路線のエンタメ
B. 過去作風への回帰
C. 新境地開拓

さて、どうなったかというと……

 


⑦天気の子

2019年7月公開

 


映画『天気の子』スペシャル予報


これはーー僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語。

〜あらすじ〜
都立神津島高校の1年生・森嶋帆高(もりしま ほだか)は家出して東京本土にやってくるが、ネットカフェ暮らしも数日で残金が尽きてしまい、フェリーで出会ったライターの須賀圭介を頼る。圭介は姪の夏美と2人だけの零細編集プロダクションを営んでいる。帆高は住み込み・食事付きの条件に惹かれ、そこで働くようになる。
2021年(令和3年)夏の関東地方では、長期間にわたって雨の日が続いていたが、その状況でも晴天を呼ぶ「100%の晴れ女」がいるという都市伝説が流れていた。帆高はある事件から天野陽菜(あまの ひな)という少女と出会うが、彼女こそがその晴れ女で、祈るだけで短時間・局地的にだが確実に晴れ間を呼び寄せる能力を持っていた。
陽菜は小学生の弟・凪(なぎ)と二人だけで暮らしており、彼女が金に困っている様子をみた帆高は、晴れ女の能力で商売をすることを提案する。


う〜ん、エンタメなあらすじ。もうタイトルとキービジュアルからエンタメ臭する。

観た。

エンタメだな、と思った。

さっきのABCで言うところの完全にA。
回帰した部分はなくはないBだBだと言う人は多い。人によってはCとも言うかも。けど、おれはどう見ても『君の名は。』の路線としか思えなかった。

しかしである。

Twitterでオタクどもの感想を見たところ、

新海誠が帰ってきた」

「『君の名は。』で獲得した新規層を裏切る痛快っぷり」

「前作あれだけ大衆迎合してヒットした上でこの作品はすごい」

という意見が散見された。
そしておれは怒りの打鍵を開始したのである(冒頭序文にもどる)。

まさか自分が「おれって異端?」とか言う痛いオタクになるとは思わなかった。

  

 『君の名は。』と『天気の子』はそっくり

世間のオタクに言わせれば「新海誠は『天気の子』で大衆を置き去りにした」のだそうだ。

『天気の子』では、最後、主人公の帆高は「世界の安定」をうっちゃって「愛する人の存在」を選択する。
結果として東京は壊滅する。でもふたりは生きていて、そしてこれからも一緒に生きていく。そんなラスト。

たしかに「それから雨は三年間降り続いている」はかなり衝撃を受ける展開だ。
でも、これで大衆が「意味わかんなーい!」とはならんだろう。
お前ら大衆のこと馬鹿にしすぎじゃないか? ていうかお前らは大衆ではなくてなんなんだ? なんで高次元の存在気取ってんだ?

年のため言っておくと、おれは『天気の子』はいい映画だと思った。
おもしろいと思った。上質で良質なエンターテイメントだと思った。

『天気の子』は「上手い映画」だ。
良質なエンタメとしてしっかり大衆ウケしつつ、『君の名は。』よりもオタクに優しく、監督自身が言いたいことをしっかりと物語に落としこんでいる。→インタビュー参照
超ヒット作の後の作品としては大正解だったと思う。

幅広い層が親しみやすいように作られている。
まず、老若男女だれでもわかりやすい簡潔なストーリー。
(……だとおれは思ったのだが、半端オタクに言わせると「難解」で「人を選ぶ」らしい。それ本気で言ってます? 人のこと馬鹿にしてません? 自分が特に読解力のある特別な次元にいると思いこんでません? 普段本などはお読みになられますか?)

そして一般の人が親しみやすいだけではなく、ちゃんとオタクが反応しやすいネタが散りばめられている。オタクに「ニチャア」とさせるための装置が多い。
家出して居候する主人公、特殊能力をもつヒロイン、イケショタ、ひょうひょうとした一見ダメっぽいイケオジ、快闊で頼れる巨乳のお姉さん、セカイ系のフォーマット、語られる古来の伝説、キャッチャー・イン・ザ・ライ……。
Twitterでは『天気の子』のキャラクターの造形や物語の展開がゼロ年代に見られたギャルゲーやエロゲーにたとえる遊びが盛んっぽい。

でもなあ、オタク的要素なんて、そんなのはオタクしか感じとらねえんだよ。
オタクじゃない人はそもそもセンサーがないんだから、全部スルーするんだよ。たまたまテメーのセンサーが敏感なだけだ。みっともねえから「『天気の子』はオタク向け作品!」とか声高々に言うな。
「大衆」はそもそもそんなこと気にしねえんだよ。気にならねえんだよ。違和感覚えることすらねえんだよ。

「大衆」が求めるのは、物語が易しいことと、カタルシスがあることだけだと思う。

『天気の子』は易しく、カタルシスがあった。

それは『君の名は。』路線のエンタメであることに他ならないと思うのだが。

世間のオタクに言わせると「『君の名は。』とはまったくの別物」らしいのだが、嘘だろ?
後半の物語の展開なんてまんま『君の名は。』ではないか。

おれはその点がかなり大きいガッカリポイントだった。

どちらも「ヒロイン消えちゃったけどなんだかあそこに行けばまた会えそうな気がする、と主人公が根拠なく神道的スポットに飛びこんでなんやかんやで再会するエンド」だ。

おれは『君の名は。』でつくられた型に違う液体を流しこんだだけじゃないか、と思った。
焼き直しじゃないか、と思った。成功したから同じフォーマットをつかっただけじゃないか、と思った。
それを差し置いても『天気の子』はおもしろかったのだが。

君の名は。』ではセカイもヒロインも助かった。
『天気の子』ではセカイを犠牲にしてヒロインが助かった。
ただそれが違うだけの話で、大筋は一緒だ。どちらも「ふたり」は再会しているし。

それにしても今回はなぜこんなにセカイ系セカイ系言われているのだろう。
君の名は。』だって十分すぎるほどにセカイ系なのだが、今回はあまりにはしゃいでいるオタクが多いな。まあいいわ。


君の名は。』以降で変わった作劇のポイント

まだ二作しか出ていないから「以降」とか言ってもいいのかわからんけど、『君の名は。』以降は以下のような作劇における変異がある。


①惜別の消失

新海誠作品は、必ず最後に「ふたり」は別離していた。『言の葉の庭』まで例外はなかった。

星を追う子ども』なんてキャッチコピーが「それは、“さよなら”を言うための旅」である。
雲のむこう、約束の場所』では世界もヒロインも助かったが、ヒロインのとある想いが消失した。

君の名は。』と『天気の子』では、最後に「ふたり」が再会する。これからの幸せを期待させる終わり方だ。

おれは『君の名は。』のラストで非常に慄いた。
『天気の子』のラストで「ああこれからの映画はこういうふうにオチるのね了解」と思った。

おれは新海誠を観終わったあとにこみあげる「うっ、かなしい」という気持ちがとても好きだった。

君の名は。』は、瀧と三葉が会わないまま終わったら、おれの中で名作ではなく超名作になったんだがなあ……再会しちゃったよなあ。すべてが上手くいきすぎちゃった感はある。

『天気の子』に関しては「セカイを終わらせてヒロインを選ぶ」という展開、おれもオタクなので、すなおによいと思った。
ただ、もう少しだけ犠牲のようなものがあってもよかったのかもしれない。というかすべてが上手くいきすぎている。須賀さんなんで事業成功してるんだよ。ばーさんなんでちゃっかり引っ越してるんだよ。


②主人公の「根拠はないが確信のともなった行動」、そしてそれがことごとく正解する

なぜ口噛み酒を飲んだら再度三葉と入れ替わりできると思ったのか。
なぜ鳥居をくぐったら空の上で陽菜に会えると思ったのか。
メタ的に言うと物語を象徴する大事なスポットだからそりゃそうなのだが。
けっこうこの点を指摘する人は多い。あまりにご都合すぎるだろと。
ご都合どうこうはまあアニメ映画だからおいておくとして、次回作も同じパターンやったらおれはカチキレると思う。


③舞台装置の都合の良さ

これは②とも共通するのだが、『君の名は。』で言うところのテッシー爆弾である。主人公の友達の親の会社が都合よく爆弾を扱っていて、最後に大活躍する。これはまあまだしょうがないし無理矢理感はなくはなくはない。

『天気の子』における銃は本当に都合がいいアイテムだ。たまたま拾って、撃って、それで物語が展開して、存在を忘れかけたころに手元にもどってくる。チェーホフもびっくりするくらい活躍する。
そしてその銃については刑事(彩奈の旦那のほう)が一言、ナントカが捨てた銃とか言うだけで、バックグラウンドまったく語られることがない。

まあおれもこの点に関してはべつにこれでもいいと思う。アニメ映画だし。


④説明の省略

③から繋がりました。『君の名は。』もそうだが『天気の子』ではこれが本当に顕著だった。

銃もそうだし、帆高の家庭については詳細がまったく語られない。とりあえずサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に影響を受けたことだけはわかった(やっぱり野崎孝じゃなくて村上春樹訳の方なんだな。新海誠はハルキストだもんなあ)。
家族も出てこない。島での生活の描写は皆無。回想もなし。

新海誠によると「こういった説明を省くことに批判があるとも思うが、あえてやった」とのこと。

まあおれもこの点に関してはべつにこれでもいいと思う。アニメ映画だし。


⑤お決まりの演出

はい。RAD早回しですね。二作連続で使われましたね。何気に新しいテクニックな気がする。もう特許とれ。
でもこのRAD早回しをまた見せられたのもあって、なーんか『君の名は。』の焼き直し見せられてる気分になっちゃったなおれは。

あとはいちいち派手なシーンが挟まれるようになったよね。『君の名は。』で言うところの彗星。『天気の子』で言うところの花火。観ている人が飽きないようにってことだろうね。


⑥キャラクターが強くなり、物語のスケールが大きくなった

ここマジで大きなポイント。次の試験に出るから。

かつての新海誠作品は、キャラクターデザインがよろしくなかった。
主人公ですら見た目が地味だったし、性格も無個性で地味だった。
というか人間がぜんぜん登場しない。主人公と、その周りにあと何人かいるくらい。
小さな、閉ざされた世界での話だった。

雲のむこう、約束の場所』なんて壮大な設定なのにぜんぜん人間が出てこない。出てはくるけど、だれも強烈なキャラクターはもっていない。強烈な境遇にいたりはするが。
なんなら名前だけ出てくるけど姿は登場しないヒロインの祖父が一番存在感強い可能性すらある。

新海誠はある意味「小説的な」アニメをつくる人だった。キャラクターはあくまでストーリーを動かすための装置で、強い個性をもっていなかったように思う

主人公ですらそうだ。初期三作に関してはマジで無個性。まったくの無個性かといえばそんなことはないけども、アニメ映画の登場人物としては個性がなさすぎる。

実はキャラへの個性付与は『星を追う子ども』〜『言の葉の庭』で萌芽のあった部分ではある。
星を追う子ども』の主人公は小学生にしては大人びた家庭的な少女だった。
言の葉の庭』はユキちゃん先生のキャラなしでは成り立たない。主人公もまあまあキャラ立ちしていた。
でもやっぱり物語を成り立たせる根幹を担う人数は少なかったし、当然物語のスケールも小さかった。

君の名は。』『天気の子』ではキャラクターたちがよりキャラクター性を増し、「漫画的」になった。
単純にデザインがよくなったし、みんなに性格の個性が付与された。

これについては新海誠も明確に語っている。以下インタビューより引用。

「『モブキャラクター(主要人物以外の名前のないキャラクター)一人ひとりをモブにしないように描きたい』という気持ちがあって、チンピラにせよ刑事たちにせよ、映画で見える裏側にもうひとつの人生があると思って描きました」

というように、多くの個性的な人間がたくさん物語に絡み、それぞれが欠かせないピースとして扱われている。

それまで少人数劇だったものが、大規模な群像劇となった(群像、とはいってもとはいっても根幹は「ふたり」の「セカイ」なのだが)。

これもおれが最近の新海誠作品に感じているさみしさポイントのひとつである。
おれは新海誠の「必要最低限の少人数で閉ざされた世界」を描く作風が好きだったからだ。
雲のむこう、約束の場所』のような壮大な世界観の中で、あえて壮大になりすぎない話が好きだった。スケールの大きい話も、それはそれでおもしろいのだが。

 

⑦登場人物がみんな健康

最近はウジウジしている人間も、倒錯している人間も出てこなくなった。

マジでみんな健康的。
新海誠作品の主人公は「ウジウジした男」しかなれなかったはずなのだ(『星を追う子ども』は例外的に主人公が女児だが、パーティにはウジウジした上に倒錯している男がいる)。
主人公は『言の葉の庭』までみんな陰キャだったのだ。

瀧くんは好青年だし帆高も素直でいい子。
帆高は素直すぎてこちらが恥ずかしくなるような台詞を言ったり行動をとったりする。

主人公が陽キャになったのは広い層に親しまれるため説。
エヴァンゲリオン』はシンジくんがあんな性格だから、オタクにしか親しまれないんすよ。

 

カタルシス重視で派手な作劇

さっきから言ってる通りっすね。

 

 


と、以上のことを考えると、どうもおれは『天気の子』は『君の名は。』の延長にある作品としか思えないのだ。
もちろん安易に意識的に『君の名は。』をなぞったわけではないと思うが、結果としてそうなっちゃってるよね。

人気ラーメン屋のセカンドブランド店みたいな感じ。本店では使わない素材使ってますみたいな。本店よりちょっとだけ尖ったメニューになってますみたいな。でも激辛とかではないのでみなさま美味しくいただけますみたいな。
んで一部のラーメンマニアが「ムムッ、広く一般的な大衆に親しまれるような本店とは違い、これは素人には理解できないすばらしいラーメンだ!」って騒いでいるみたいな。

でも来店した多くの人はニュートラルな気持ちで「おいしいね!」って食べているみたいな。

オタクは「ヒット作のあとにしては挑戦的な作品だ」などとのたまっているが、それは些事を注視しすぎだと思う。

映画のつくりの話をすると、先ほども言ったが演出にせよ展開にせよキャラ造形にせよ『君の名は。』の焼き直しという印象があまりに強い

筋立てもそうだがRADWIMPSだってそうだ。
おれはまたRADが音楽を担当すると聞いたとき、かなりがっかりした。
「つづけて起用するなんてプライドないのか?」とすら思った。何作か空けてとかだったら「またあのタッグが見れるのか!」とワクワクしたと思うが、つづけてだと萎える。

なぜなら、RADはまた『君の名は。』と同じような使われ方がするのを想像できたからだ。あたりまえだけどやっぱりそうだったよね。

「『天気の子』のプロット書いたらたまたまRADWIMPSが合致すると思ったんです。たまたま。RADの楽曲が必然だと思ったので起用しました。無理矢理起用したとか最初から起用しようと思ったわけではなくて、たまたまRADが必要な映画になったんです」ということなのかもしれないが、つまりそれは「『RADが必要』という考えにいきつく作品しかつくれなくなっている」のに他ならないのかもしれない。
なぜRADWIMPSが再起用されたのか、詳しくインタビューとかで話してないですかね。知っている人いたらおしえてほしい。
→この記事書いた3日後のインタビューでRADWIMPSが起用された経緯について語れていた。まあおれが書いたことと近からず遠からずでしたね。

 

 

最後に

そんなわけで、『天気の子』は『君の名は。』の延長にある作品、オタクの言う「原点回帰」はちょっとちゃうやろということを言うために15,000文字ほど使いました。

新海誠はインタビューで「『天気の子』は『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい映画にしようと思った。「怒られないようにしよう」というふうには思わなかったです」と語っている。


たしかに怒る人は怒る映画だ。
でもそれと同時に「さまざまな人種に文句を言われにくい」映画でもあったと思う。

ラストが本当に上手い。
「ふたりは助かるけどセカイは破滅する」というのは
ある人にとっては「ハッピーエンド」
ある人にとっては「挑戦的な展開」
なのだ。
多方面から、いろんな視線から、評価されるラストだった。
だから「新海誠やりやがった!」と騒ぐオタクも出てくるのだろうよ。

『天気の子』はヒット後第一作として正解を打ち出した映画である。
君の名は。』の路線を踏襲しつつ、ほんの若干だが「従来の新海誠らしさ」をとりもどし、オタクがキャッキャできる要素を加えてくれた。

次の作品がどうなるのか本当に楽しみである。
ただ個人的には『君の名は。』フォーマットはもうかんべんしてほしいところだ。

 

小説 天気の子 (角川文庫)

小説 天気の子 (角川文庫)

 

 

太宰治は、ポップな作家である

太宰治、読んだことありますか。

人間失格』と『走れメロス』 の二作だけしか読んだことがないのであればそれは「読んだことがある」とは言えねーからな(冒頭から謎の喧嘩腰)。

それはBUMP OF CHICKENで言ったら『天体観測』と『カルマ』しか聴いていないようなもので、大栗裕で言ったら『大阪俗謡による幻想曲』と『神話』しか聴いていないようなものなのだ。


太宰治は日本近代文学の作家の中で……いや日本文学史上、もっとも有名な小説家といっても問題ないはず。
街を歩く人に「太宰治知ってる?」と訊いたらみんな当然知っているというだろうし、渋谷のギャルでも「んあー? 名前だけは聞いたことある気がするくね?」と答えるにちがいない。
でも 『人間失格』と『走れメロス』 以外の作品を読んだことがある人は、日本人の30人にひとりもいないと思います。こんなに有名な作家なのに!


みなさん太宰治にどんな印象がありますか?


「暗くてジメジメした小説ばかり書いている心中厨のナヨナヨのおっさん」


まあだいたいは合っている。


いや待てよと。それだけじゃないんだ。たしかに暗くてジメジメした部分がわかりやすいからフォーカスされがちだけど、みんななぜ太宰治はポップだということに触れないのだろう?
太宰好きもこの点について語ることが少ないなと思います。


そして『人間失格』と『走れメロス』だけで太宰治を知った気になるのは早計すぎるんだぜ。

とりあえず『走れメロス』について思うところを書いてみます。
 

走れメロス (新潮文庫)

走れメロス (新潮文庫)

 


走れメロス』の梗概
「人間不信のためにめちゃくちゃ人を処刑しまくっている王様、に激怒した羊飼いの青年・メロス。メロスは王様の暗殺を企てて城に潜入するも衛兵につかまり、王の前に引き出される。もれなく処刑されそうになるも『処刑は後日受けるから、その前に妹の結婚式だけ挙げさせてちょ! 友達のセリヌンティウスを人質にするから!』と言って親友を身代わりにあずけ、急いで村に帰り、無理矢理妹の結婚式を挙げ、川の氾濫や山賊の襲来に見舞われながらもなんとか急いで城にもどると『お前マジでもどってきたんか! 死ぬの怖くて絶対逃げると思ったわ!』と王様感動、ふたりを釈放、メロスは疲労、服はボロボロ、全裸でボロン、赤面ポロポロ」


うーん、まあ道徳的といえば道徳的なアレを読みとれないこともないから(太宰は絶対そんなこと意識してないと思う)、教科書に載せやすかったのかも。「文章が平易で原稿用紙26枚の短編だから」という側面もデカい気はするんだけども。


でも『走れメロス』ってよくよく考えて読んでみると、やっつけで書いた感ない? 太宰治風に言えば「やっつけで、書いちゃった」感ない?


ところでハチャトリアンの有名なバレエ音楽に『ガイーヌ』というのがありまして、特に有名な章が『剣の舞』という曲なんですけど、みなさん知っていますか? 絶対聞いたことがあると思うのでピンとこない人はYouTubeなどで調べて聞いてみてください。


『ガイーヌ』には当初『剣の舞』は含まれていませんでした。しかし初演前日(前日!)になって「クルド人が剣を持って戦いの踊りを踊る」場面が追加されることになり、ハチャトゥリアンは急遽その場面のための曲を作曲する必要に迫られ、一気に曲を作り上げたんですよ。


この無理矢理建設した一夜城の『剣の舞』は予想外にも大ウケ。今日でもWikipediaに『ガイーヌ』とは別で単独記事がつくれられるくらい有名。「『剣の舞』を書いたおじさん」「『剣の舞』で有名なおじさん」というを扱いを受けることになったハチャトリアンは「なんであんな一晩で書いた曲が特に評価されるんだ。こんなことになるなら書くんじゃなかった」嘆いていたとのことです。みんなもっと『剣の舞』以外を聴いてさしあげろ。『ガイーヌ』を通しで聴いてさしあげろ。


太宰治における『走れメロス』=『剣の舞』説あると思うんですよね。急ピッチで書いたんだろとは思わないけど、他作品と比べると練られていないところが多すぎるというか。でも、有名になっちゃった。


太宰治に「先生、先生の小説はなぜか『走れメロス』がとりわけ有名ですよ。教科書にも載っていらっしゃる」と伝えてみたい。それはもう驚くに違いない。「ええっ、なんで『走れメロス』なんだ」と狼狽するのではないかしら。


ちなみに『走れメロス』は着想のエピソードがまあまあゴミなんですよね。以下Wikipediaから引用です。


懇意にしていた熱海の村上旅館に太宰が入り浸って、いつまでも戻らないので、妻が「きっと良くない生活をしているのでは……」と心配し、太宰の友人である檀一雄に「様子を見て来て欲しい」と依頼した。
往復の交通費と宿代等を持たされ、熱海を訪れた檀を、太宰は大歓迎する。檀を引き止めて連日飲み歩き、とうとう預かってきた金を全て使い切ってしまった。飲み代や宿代も溜まってきたところで太宰は、檀に宿の人質(宿賃のかたに身代わりになって宿にとどまる事)となって待っていてくれと説得し、東京にいる井伏鱒二のところに借金をしに行ってしまう。
数日待ってもいっこうに音沙汰もない太宰にしびれを切らした檀が、宿屋と飲み屋に支払いを待ってもらい、井伏のもとに駆けつけると、二人はのん気に将棋を指していた。太宰は今まで散々面倒をかけてきた井伏に、借金の申し出のタイミングがつかめずにいたのであるが、激怒しかけた檀に太宰は「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」 と言ったという。
後日、発表された『走れメロス』を読んだ檀は「おそらく私達の熱海行が少なくもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた」と『小説 太宰治』に書き残している。


なかなかのクズエピソードやで。川端康成は「太宰は私生活がだらしないから芥川賞あ~げない」と言ったそうですが、教科書出版社はよくもまあアル中でヤク中で女たらしで心中した奴の書いた文章を載せて文部科学省はそれをゆるしてるよな。

文章も軽妙、展開もコミカル。着想元はとってもポップ。


ちょっと『走れメロス』の話が長くなりすぎた。
以下はもう一方の代表作、『人間失格』について。
 

人間失格 (集英社文庫)

人間失格 (集英社文庫)

 

 
みなさん「とりあえず読んでおこう」の気持ちで読んだことがあるのでは? 日本文学史上もっとも読まれた小説なのではなかろうか。そしてこれからもずっと読まれていくのであろう。


あらすじは「大庭葉蔵という生まれてからずっと道化を演じつづける男がめちゃくちゃ女にもてたりするけどヤク中になったり貧乏になったりで荒んだ生活を送る」という話です。これだけでだいたい説明終わるんだからすごいな。


「恥の多い生涯を送ってきました。」
「生まれて、すみません。」
「人間、失格。」
というパンチラインの数々。ポップですよね。そう、ポップなんです。


あらためて、みなさんちゃんと太宰治のこと読めていますか?


「暗くてジメジメした小説ばかり書いている心中厨のナヨナヨのおっさん」 というイメージが強いですが、そんなこたぁない。暗くてジメジメした部分か、教科書に載っている『走れメロス』ばかりフューチャーされているけれど、それだけじゃあない。


人間失格』も、たしかに主人公とそれを取り巻く環境はとても荒廃としていますが、それを最後まで人に読ませることができるのは、一貫して文章や台詞回しがとても諧謔的だからなんですね。とってもポップ! 70年くらい経っても褪せないポップさ。


佐藤友哉先生がいくつかの戦後文学について語った著書の中で、こうおっしゃられていました。


「一級品の文学なんてものは誰でも書ける。ポップでなければ、時代にとり残される」


吉川英治が消え、横光利一が消え、井伏鱒二が消え、田山花袋が消え、武田泰淳が消え、志賀直哉が消えかけ、三島由紀夫すら消えかけようとしている今、太宰治がずっと強い存在感を放っているのは、とりわけポップだからではないでしょうか。


太宰作品をちゃんと読んでみると、とても平易で軽妙な文章であることがわかります。暗くてジメジメした小難しい文学ではありません。暗くてジメジメしたところはもちろん多いですが、そこだけに着目するのはもったいない。ていうかあの時代の人だいたい暗くてジメジメしてるだろ、デフォで。


題材もポップなものをとりあげたりしています。『御伽草子』は「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀」といった童話を太宰がアレンジしたものです。太宰らしい外連味たっぷりの小説になっています。


暗くてジメジメしたところだけフォーカスされがちだけど、みなさんちょっと違う読み方をしてみてほしいなと思う次第にございます。


そんなわけで以下、「短時間でサッと読める! 太宰治のポップな短編」のおすすめ三選です。青空文庫からすぐに読めるぜ!


これはたまたまなんですけど、挙げる三作はすべて女性一人称の作品ですね。太宰は好んで女性一人称を使いました。代表作のひとつ、『ヴィヨンの妻』も女性一人称だったり。 


①女生徒

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これは外せないでしょう。有名だからわざわざ挙げることもないか?
ファンから送られてきた日記をもとにして書かれた短編。14歳という諸々が年頃の女の子が、朝起床してから夜就寝するまでの気持ちの移ろいを描いた作品。
太宰の書く女生徒がキモいくらい女生徒。けっして「お耽美」にはならず軽妙で、すごいバランスで書かれていると思います。


②饗応夫人

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わたしが一番好きな作品。
ある未亡人の家に亡き夫の友人が入りびたるようになり、もてなし狂の奥様がクズ男をもてなしまくるという救いのない話、をとてもコミカルに描写した短編。本来悲惨であるはずの事象をここまでコミカルに描くのは並大抵のことではないよ。


③十二月八日

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日本軍の真珠湾攻撃にともなう日米開戦を受けて書かれた作品。
開戦の朝にわくわくそわそわしている主婦の日記、という体の短編。出てくる「主人」のモデルは太宰治本人でしょう。
一見国威発揚のためのプロパガンダな国策小説ですが、それは見せかけだという説があります。

 

「日本は、本当に大丈夫でしょうか」
 と私が思わず言ったら、
「大丈夫だから、やったんじゃないか。かならず勝ちます」
 と、よそゆきの言葉でお答えになった。主人の言う事は、いつも嘘ばかりで、ちっともあてにならないけれど、でも此のあらたまった言葉一つは、固く信じようと思った。

 銭湯へ行く時には、道も明るかったのに、帰る時には、もう真っ暗だった。燈火管制なのだ。もうこれは、演習でないのだ。心の異様に引きしまるのを覚える。でも、これは少し暗すぎるのではあるまいか。こんな暗い道、今まで歩いた事がない。一歩一歩、さぐるようにして進んだけれど、道は遠いのだし、途方に暮れた。あの独活の畑から杉林にさしかかるところ、それこそ真の闇で物凄かった。

 

たしかに勘繰りたくなる表現は多いですが、どうなんでしょうね。他にも若い人が出兵することや市場に品物が薄いことへの不安が書かれていたり。
このへんは先ほど挙げた佐藤友哉先生の著作でも書かれているので、気になった方はぜひ読んでみてください。
ちなみに当時実際の妻であった美知子氏はこのように回顧しています。

長女が生まれた昭和十六年(一九四一)の十二月八日に太平洋戦争が始まった。その朝、真珠湾奇襲のニュースを聞いて大多数の国民は、昭和のはじめから中国で一向はっきりしない○○事件とか○○事変というのが続いていて、じりじりする思いだったのが、これでカラリとした、解決への道がついた、と無知というか無邪気というか、そしてまたじつに気の短い愚かしい感想を抱いたのではないだろうか。その点では太宰も大衆の中の一人であったように思う。

ううむ。とにかく国策小説であろうがなかろうが、大国との戦争開始という緊迫感の中で書かれたとは思えない軽妙さがベリーグッドな短編。

 

このシリーズ、次はだれにしようかな~。新海誠のこと書いたらみんな読んでくれる?
 

転生! 太宰治 転生して、すみません (星海社FICTIONS)

転生! 太宰治 転生して、すみません (星海社FICTIONS)

 

ライブハウス・地底バンド事情 チケットノルマとブッカーについて

どうも、喧嘩売る気はまったくなかった記事がやや拡散されてしまい「多方面に喧嘩を売ってる物言いブログをやってる奴」みたいになってしまっている筆者です。

書いた記事が

「楽譜読めない奴をバカにしている」
「酒飲んでライブをやっている奴をバカにしている」

と捉えられることが多くて、まあ少しでもバカにする気持ちがないかと言えばそれはゴニョゴニョなんですけど「楽譜読めなくてもいい人もよね」「酒飲んでやっていいライブやバンドもあるよね」とちゃんとフォローもしているし、本当にそう思ってるよ!

ぼくが言いたかったのは「楽譜読めろ」でも「酒飲むな」でもなく、「思考停止するな」ってことだったんですよね。

「楽譜読めないけど逆に知識にとらわれないのが最高!」「アルコールなんてライブのクオリティに影響しないっしょ!」というのは思考停止以外のなにものでもないわけで。それが「こだわり」まで発展しているならいいんですけどね。

思考停止、しないように気をつけたいですよね。ぼくも生活のありとあらゆることで思考停止している事柄があると思うのでとっても気をつけたいですね。

ところで、ライブハウスという場所がありまして、本日はこいつにまつわる記事でございます。

 

ja.wikipedia.org


ライブハウスというのは、思考が停止したおっさんたちのたまり場で……うわこんな極端な筆致だとまた喧嘩売りブログになっちまう! いやいやいや今日は本当に物申し記事でっせ。

最近Twitterでチケットノルマ制について盛んに議論されているので、もう旬は過ぎてる感はありますが、ぼくもチケットノルマ制と、ブッカー(イベントを作成する仕事の人)のことを書いてみようか思います。

ライブハウスにはチケットノルマというものがあります。

これは「出演条件として15人の動員約束な。もし15人下回ったら不足分は払ってもらうから」というシステムのことです。演劇やお笑いなどにも同様のシステムがありますね。

条件は年々下がってきているらしいですが、2000〜2500円×10〜20枚くらいのノルマを課せられます。

バンドマンが貧乏なのは「機材を買うから」「飲み歩くから」ではなく「チケットノルマを払っているから」というところがかなり大きいと思います。みんなこの地獄から抜け出すために日々がんばっているわけですね。

なんでチケットノルマ制度なんてものがあるのかというと、そりゃライブハウスも維持費が必要なわけで。家賃や人件費や設備維持費やら、本当にバカにならないですから。チケットノルマとっていないライブハウスはどういうカラクリで経営できているんだ。

最近「チケットノルマは悪!」みたいな風潮強いですけど、ぼくはあまりそうは思いません。だってしょうがないじゃん。ライブハウスってお金かかるじゃん。かと言って手放しで賛成もしませんけど。

チケットノルマにだっていいところはある!

まずバンド側。「金さえ払えばライブハウスに出られる」ということです。

「音響や照明に専任のスタッフがしっかりついていて(しっかりしていないところもあるけど)、あこがれのバンドが出ていた・出ている場所」で、金さえ払えば「ライブができる」わけですよ。

客が呼べなかった分は自分たちで金を払って補填すればいいわけです。うわあ気が楽(「金さえ払えばいいから気が楽」なんて思ってる奴は一生売れません)。趣味バンドや固定客がいないバンドがライブハウスに出られる優しいシステムではないか。

あとはちゃんとバック(上がり)も出るんですよ。「○人以上の動員で○%バック」みたいな。すごい。がんばればお金ももらえるようになっている。

ライブハウス側にとっては「課したぶんのノルマが回収できれば確実に売り上げを抑えられる」というメリットがあります。

まあそんな簡単な話じゃないけどね。ノルマ回収してもお客さん自体が少なかったらドリンクが出ないから売り上げも落ちちゃうし。あとはいろんな事情でノルマ下げたりしなきゃいけないときもあるし。

すごいぞノルマ制! 動員があろうがなかろうが、出る側もライブハウス側も安心だネ! まあ簡単な話じゃないですけどね。

さて、ここからは「クソブッカー」の話をしましょうか。

ライブハウスには恐ろしい習慣、「精算時のお話」というのがあります。

出演後に「精算」という時間があり、ここでバンドとライブハウスがお金のやりとりを行います。不足分を払ったり、バックをもらったりするわけです。

このとき、ブッカー(イベントを組んだ人)からお話をいただくのが恒例になっているんですよね。

「新曲よかったよ〜」
「ギター音でかくね?」
「もっと歪み抑えたら?」
「ブレイク後のアタックがそろってないよね」
「次いつ出られる?」

といったありがたいお言葉をいただけます。時々「オメー楽譜も読めないくせになに音楽的なアドバイスしようとしてるんだよ」「オメーもっと音楽的なアドバイスよこせよ」とマジでムカついてドロップキックかましたくなったりします。

音楽的なことについて言及されるのはべつにいいのですが、「動員少なすぎじゃね? なめてんの?」と集客面について説教をかましてくるブッカーがいます。

これがな、まじできつい。

言いたいことはわかる。

集客できないバンドに価値はない。それはそう。でも駆け出しのバンドや地底バンドが呼べる人数には限界があるのだ。

みなさん、地底のバンドってファン何人くらいついていると思いますか?

答えは0〜3人です。

マジです。多くて5人とか。いちばん多いのはたぶん「0人」の層。何年やってもファンが0人のバンドなんてザラザラザラのザラ。ごめんこれガチ地底バンドの話だからね。

「バンド企画ではないハコのブッキングイベントに、こちらから声をかけなくてもやってくる固定客がついているバンド」は地底でも上位5%くらいのもの。ていうか平日のブッキングライブでダイレクトメールせずにコンスタントに5~10人とかお客さんがやってくるバンドはもう地底レベルではない。地下くらい。

「ライブハウスにふらっと入って自分好みのバンド探している人」なんていないからね。そんなん、赤緑サファリパークのガルーラより遭遇率低い。シンガーソングライター界隈にはオタクいっぱいいるのにね。なんでだろうね。

じゃあ地底バンドはどうやって集客してるのって、友達や知人や仲間の地底バンドマンに声かけたりしてるんですね。

「それって純粋な客じゃねえじゃん」
「なにも生み出さねぇじゃん」
「将来に繋がらねぇじゃん」

はい。その通りです。

なんでもないブッキングの日に「ライブやるから来てよ! 金は払ってね!」って人に声かけるの、よく考えるとけっこうアレな行為だよな。

だからやっぱり限界があるんですよね。最初は興味もって来てくれた友達だって、毎度毎度誘うわけにはいかない。

ていうか、知り合い呼んだところでそこから広がって売れるわけねーのよ(可能性はゼロではないけども)。それが純粋な"客"かっつったら微妙なところだから。たとえ無理矢理毎回知り合い10人呼べてそれが続いたとしても、そこから売れるわけないっしょ。本当に売れるためにはやみくもにライブに出るんじゃなくて、もっと別の形でアプローチしなければならないんだよね(バチバチにライブやってコツコツ上にいくバンドもいるけど)。それもライブハウスはわかっているのよ。

でもとにかく動員しろと。動員が大事だと。

いやわかるよ。でも待てよと。

じゃあオメーは客呼ぶ努力してるのか?

「もっと集客できるようがんばろうね」と言及するくらいならいいんですよ。ていうか、それは言われてしかるべきなのかもしれない。

でもあれ、ほら、ガチ説教かましてくる奴いるんですよ。その日のライブや音楽的なことには一切ふれずに(あるいはサラっとふれるのみで)、強い語気で「集客少ないけどやる気あるん?」とか言ってくる奴。

バンドがギャラもらっている場合は話は別ですよ。バンドはギャラに見合った分の集客努力をしなければならない。

でもさ、ライブハウスのイベントで、チケットノルマ制のときは、こう、違うやん。

客を呼べないバンドはクソ。それはそう。でも「バンドに集客の責任をすべて依存してオッケー」というのはどうなんだろう?

お前が「出てほしい」って言ったんじゃん。ノルマの条件で。それでこっちは動員不足分の金払ったよ? それでチャラでしょ? なんでさらに集客が少ないって怒るわけ!? お前の出演依頼に応えてやって金まで払ってやったのに!?(この思考は非常に乱暴ですし、普段は「これでチャラ」「応えてやった」「払ってやった」などとは思わないのですが、動員のことで怒られるとそういう気分になります)

「『おれも金だけもらってハイ終わり』ってしたくねえんだわ」って言う人いますけど、ぼくは「動員できなかったか〜。じゃあ不足分払ってね。ハイ終わり」でしかるべきだと思うんですよね。

もちろんバンドは集客できなかったことは反省するべきです。でもブッカーは既定の金もらっておいて怒ったりする必要はないし、不満を言う権利はないとは思います。

バンド側からしたら約束を守った(金を払った)のに怒られるという地獄。

怒る人はだいたい怒って終わりな印象があります。建設的で具体的なアドバイスは言ってくれない気がします。「今回ライブのお客さん少なかったね。これからどうしていこうか。〇〇とかしたらいいんじゃない?」とか言ったらいいのに「オメーやる気あんの?」で終わりみたいな。

そらまあたしかにずっと月2〜3回ペースでブッキングイベント出続けて自主企画もやらずにお客さんがいつも0〜2人のうだつの上がらないバンドは「ちゃんとしろや!」ってだれかに怒られるべきだとは思いますけどね。

「バンドのためを思って厳しい態度をとってる」とかいうなら具体的に集客の方法をアドバイスしてくれよ!!!!! って知らんか集客の方法なんて。

「集客の責任は100%バンド」「不足分の金をもらった上にえらそうに怒ってもよい」があたりまえなのは相当やばい業界だと思います(一昔前から見るとそういう人はかなり減っていると思いますが)。

「もっといろんな人に声かけたりしようよ」とかバンドに推奨するなら、じゃあ自分もやらない理由がないんじゃないのと思う。だってお前のイベントなんだし。お前の勤務先なんだし。お前の店なんだし。動員がお前の飯につながるわけだし。「おれの今度ブッキングするイベントめっちゃいいから来てよ」とかTwitterのダイレクトメールで誘えばええやん。

ハコのブッキングイベントにおいて、なぜバンドに集客のすべての責任がいくのがあたりまえとなっているのかがわからん。ぼくは動員の責任の8割はバンドにあると思います。でも残りの2割くらいはライブハウスやブッカー、イベントそのものにあると思います。なぜ多くのブッカーはバンドが責任100%だと思っているのか。そりゃバンドの企画だったらそりゃバンドが100%ですけども。

多くの腐れブッカーは集客の努力などまったくせず、どこのラーメン屋が美味いだのカレーがうまく作れただの最近読んだ漫画がおもしろいだのをつぶやくばかりで、イベント解禁したときの「良いイベント組みました!」と前日の「明日はこのイベントです!」と当日の「本日はこのイベントです!」の合計3回の告知をするだけやんけ。

まとめます。

チケットノルマの条件で出演依頼して、それに"応えてくれて"、"不足分の金をちゃんと払ってくれた"バンドに対して、自分(ブッカー・ライブハウス)は集客の努力をしていないにもかかわらず「動員が少ない」と怒るのは横暴じゃね? 

「俺様のイベントに出させてやった」「出演する機会を与えてやった」って思考なのかな? お互いに「出てもらった」「出させてもらった」という思考になりたいものですよね。

ライブハウスに出演していかなければ音楽活動ができない、とかそういう時代じゃなくないですか? ライブハウスがえらそうにできる時代じゃなくないですか? いまほとんどのライブハウスはブッキングイベントに出演してくれるバンドがかなり減少して相当苦しいみたいですけど、そんなご時世に、バンドに集客の全責任押しつけて動員少なかったら怒ってやる気削いで……なんてことしていたらさらに出てくれる人減るんじゃないですか? ぼくは実際それでブッキングライブ出るのやめましたし。

これはぼくがあまえんぼのゆとり世代バンドマンだからこういう思考になっているんですかね? 違うでしょ。ことブッキングイベントにおいての集客は、バンドの努力とライブハウスの努力の両方で成り立つものでしょ。みなさん四谷アウトブレイクさんを見習っては……(店長のブーンさんのインタビュー記事貼っておくね)。

もう一度言いますが、ライブの集客ができていないバンドはクソです。思考停止でブッキングイベントにバンバン出ていつも集客0〜2人のバンドはクソです(こいつらには怒っていいのかもしれない)。

でもいつも思考停止で「自分は集客の努力をしないのに」「自分のイベントに出てくれたバンド、しかも不足分の金を払ってくれたバンド」に不満をたれるブッカーはクソカスだと思います。ていうかバンドが集客の努力をしてくれるようなイベントを作っては? 自分は毎回作れてるって? ああそう……。

そんなわけで、ぼくは「集客に言及される」のも嫌だし、「人にダイレクトメールを送ってまで集客する」のも嫌なので、自分が運営しているバンドはライブ出演をあまりしない方向にシフトしました。ライブハウスでの活動ではないところでファン(集客の要素)を作って、それができたらライブをやっていこうと思っています……がどうなることやら。

ぼくはときどき自分で企画を打つことがあって、その時は集客のために人に声をかけたりしますが、なるべく申し訳ない気持ちにならないよう、なるべく楽しんでもらえるよう、イベントは「全バンド出演して転換DJもやってフードも出す」というふうにエンタメ性をもたせたりしています。

……なんか自分語りしたら落とし所わからなくなっちゃった。

グダグダ文句書きましたけど、ぼくはライブハウスや界隈のことは嫌いじゃないですよ。お世話になっている人たち(ブッカー含む)は本当にいい人ばかりです。チケットノルマが悪い風習だとも思っていません(チケットノルマを設けなくてもよい世界がユートピアであることはたしか)。最近「ライブハウスは旧態依然としている悪の象徴」みたいに槍玉にあげられていてかわいそうだなと思っています。でも時代遅れでアホみたいな部分はたしかに多いかもね。

ブッカーも集客のことで怒ったり不満たれるくらいなら自分も客を呼ぶ努力しろよな。バンドに100%責任があるかって言ったらそれは違うと思うな。まあみんな「おれはTwitterで告知したりしてる」って言うんだろうけどさ。でもバンドも同じように努力してるわけで、だからバンドばかり責めるなよな。でもバンドはバンドでちゃんと客呼べるようにがんばろうな。やみくもにライブやるのは得策ではないと思うぞ。またこんな記事書いちゃったから「バンド全体の印象が悪くなるからこういうのやめて」ってメンバーに怒られるんだろうな。ぼくのことが嫌いでもぼくがドラムを叩いている各バンドのことは嫌いにならないでください! それでは。