混沌私見雑記

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新海誠全作品ふりかえり ~『天気の子』は『君の名は。』の延長にある作品だという話~

※この記事には『天気の子』や新海誠の旧作品のネタバレが含まれます。ご注意ください。

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貧乏人で出不精なので、普段はあまり映画館に行かないおれだが、先日『天気の子』を観に行った。
新海誠はそこそこに追いかけている映画監督のひとりだからである。

新海誠の映画をはじめて観たのはもう何年も前になる。
君の名は。』で大ヒットするよりずっと前だ。
べつに古参自慢ではない。というか古参というほど大昔から観ているわけではない。そもそもそこまで熱心なファンでもないのだ。
でもそのへんの人よりはちょっとだけ造詣が深いつもりだ。

新海誠は「ちょっとしたオタクの間でだけ有名なアニメ映画監督」だった。
萌え豚アニメを楽しめないオタクが
新海誠、いいよね……」
「うん、いい……」
とボソボソ語りあうような、そんな作風だったと思う。

そんな陰キャオタク御用達アニメ監督新海誠は2016年に公開された『君の名は。』でその知名度を一気に押し上げた。

君の名は。』は非常に戦略的な映画だった。
後述するが「売れるため」に作られた映画だ。

結果として、めちゃんこ売れた。

制作サイドもきっと売れると見込んでいたに違いなく、
それまでの新海誠作品は配給されている映画館がそもそも少なかったのだが、『君の名は。』は最初からそこそこの規模で強気に展開された。

結果として、アホほど売れた。

そして『君の名は。』を観た新海誠オールドファンは、悲しみ、嘆いた。

君の名は。』はだれがどう見ても「売れるため」の要素をつめこんだ映画であり、それまでの新海誠作品とはあらゆる意味で作風の断絶があったからだ。
とても同一人物の映画とは思えない。いやそりゃもちろん新海誠監督作品という前提で観ればどう考えても新海誠の作品なのだが。

オタクは自分が好きだったものがメジャーになると悲しむ習性をもつ。なんてめんどくさくて身勝手な生き物なのだろう。

君の名は。』はとてもわかりやすく、スケールの大きいボーイミーツガールファンタジーであったため、それまで新海誠の名前など聞いたこともなかった多くの人間が映画館に足を運んだ。

そして「カップルが観る映画」になった。
新海誠オールドファンは、悲しみ、嘆いた。なぜなら新海誠ファンの多くは童貞クソ陰キャだからである。

そんなオタクたちだが、最近上映された『天気の子』を観て狂喜乱舞しているのだという。

「おれたちの新海誠が帰ってきた」と。


は?????????????????????


Twitterにあふれるそんな感想群を眺めながら、おれは「クソ半端オタクどもめ」とカチキレた。


「『君の名は。』とはまったく毛色が違う作品だな……。これはライト層にとっては試される映画かもしれない」

あ????????????????????????????????????

なんだそのオタク特有の「この作品は一般人向けではないですね^^」みたいなマウントは。なんで自分が特別な存在だと思ってるんだよ。
化物語』観る前に『戯言シリーズ』読めクソボケバカ野郎が。『ニーア オートマタ』プレイする前に『ドラッグオンドラグーン』プレイしろクソボケバカ野郎が。ニワカをバカにするお前らもまたなんらかのニワカじゃボケ。

とにかく『天気の子』だが、おれにはどうも「広く大衆に親しまれるために作られたエンタメ映画」で『君の名は。』の延長にある作品としてしかとらえることができなかった。

たしかに、『君の名は。』がエンタメ度100だとしたら『天気の子』はエンタメ度80くらいの作品だ。
でも、80は、あったろ? 十分にエンタメ傾倒している作品だったよな? オタク向けではなかったろ?
オタクが好むフォーマットは用いていたが、大衆に受け入れられないなんてことはないだろ?
てかオタクが好むフォーマットである以前に『君の名は。』フォーマットじゃね?

たしかに『天気の子』は『君の名は。』よりは従来の新海誠っぽさを取り戻していた。でも、若干というレベルだったと思う。
オールドファンが手放しで「原点回帰だ!」と叫ぶことのできる作品ではない、と思う。

世間の多くのオタクの感想:今作でライト層を置き去りにした! 大衆に迎合しない姿勢かっこいい!

おれ:ああ、『君の名は。』路線でいくわけね。いいんじゃない。広い層に親しまれる良質なエンタメって感じで。

えっ、なんでこんな乖離が起きているんだ。おれがおかしいのか?

とりあえず、新海誠作品を順番に振り返ってみようや。


目次

 

 

 

ほしのこえ

2002年2月公開

 


ほしのこえ 予告編 (The Voices of a Distant Star)


私たちは、たぶん、宇宙と地上にひきさかれる恋人の、最初の世代だ。


~あらすじ~
2039年NASAの調査隊が火星のタルシス台地で異星文明の遺跡を発見し、突然現れた地球外知的生命体タルシアンに全滅させられた。この出来事に衝撃を受けた人類は、遺跡から回収したタルシアンのテクノロジーで、タルシアンの脅威に対抗しようとしていた。
2046年、中学3年生の長峰ミカコと寺尾ノボルは互いにほのかな恋心を抱き、同じ高校への進学を望んでいたが、実はミカコは国連宇宙軍のタルシアン調査隊――リシテア艦隊に選抜されていた。翌2047年、4隻の最新鋭戦艦と1000人以上の選抜メンバーからなるリシテア艦隊は地球を離れ、深宇宙に旅立つ。離れ離れになったミカコとノボルは超長距離メールサービスで連絡を取り合うが、艦隊が地球から遠ざかるにつれて、メールの往復にかかる時間も数日、数週間と開いていく。


は?
ハヤカワ文庫? もしくは中二病患者のノート?
最終兵器彼女』と似てますよね。こういうのが流行ってたんですよね。

新海誠の鮮烈な商業デビュー作である。
最新の2作と比べるとギャップがすさまじくね?

25分のフルデジタルアニメーションの監督・脚本・演出・作画・美術・編集のほとんどを新海誠監督がひとりで行なった上、主人公の声優まで担当してしまった作品である。正気の沙汰ではない。

新海誠の作家性を象徴するものとして「凝りすぎた設定」というのがある、とおれは勝手に思っている。
たった25分のアニメ、筋立ては「とある事情によって別離した男女が会えないまま終わる」というだけの地味なものなのだが、設定がめちゃくちゃ凝っていてすごい。
詳しくはWikipediaを読んでください。

 


雲のむこう、約束の場所

2004年11月公開

 


雲のむこう、約束の場所 予告編 (The Place Promised in Our Early Days)


あの遠い日に僕たちは、かなえられない約束をした。


~あらすじ~
1996年、日本は南北に分断されていた。世界の半分を覆う共産国家群「ユニオン」は「エゾ(北海道)」を支配下に置き、島の中央にとほうもなく高い、純白の塔を建造しつつあった。青森県津軽半島に住む中学3年生の藤沢浩紀と白川拓也は異国の大地にそびえる塔にあこがれ、飛行機で国境の津軽海峡を越え、塔まで飛んで行く計画を立てていた。そのための飛行機ヴェラシーラも、山の上の廃駅の格納庫で製作が進んでいる。犯罪以外の何ものでもないこの計画は他言無用とされていたが、浩紀が口を滑らせたせいで、クラスメイトの沢渡佐由理にばれてしまう。さいわい佐由理はヴェラシーラに強い関心を持ち、計画の共犯者になってくれる。浩紀たちと佐由理は、「ヴェラシーラが完成したら佐由理を塔まで連れていく」と約束を交わす。ヴェラシーラが完成に近づくにつれ3人の仲も深まるが、佐由理はある日、塔の夢を見る。そして突然浩紀たちの前から姿を消す。佐由理をなくした浩紀たちはヴェラシーラの製作を止めてしまう。いまや、ヴェラシーラは佐由理のためのものでもあったからだ。
3年後の1999年。拓也は、塔の破壊を企てる反ユニオン組織ウィルタ解放戦線に内通し、在日米軍のアーミー・カレッジで塔の秘密を…………


ストップ、ストップ。どうよこれ。やべーあらすじだよな。

でも物語はいたって地味なのだ。

北海道が侵略されているものの、主人公はべつにレコンキスタ活動をするわけではない(レジスタンス団体は出てくる)。
ドンパチに参加するわけではない(ドンパチ地帯を通過したりはする)。
なんらかの思想や信念をもっているわけではない(相棒はもっている)。
ただ、手作り飛行機に乗って雲のむこうの塔に行きたいだけなのだ。

そしてそこそこ地味に物語は終わる。『ほしのこえ』よりは派手だけど、それでも地味だ。
そう、新海誠作品は、地味だったのだ。
「派手さはないけど、すごいものを観たな……」という気分にさせる物語を描く人だった(過去形)。

この映画はいわゆるセカイ系というやつで、「きみ(ヒロイン)とぼく(主人公)」の物語が世界の命運とリンクしているという、90年代の終りからゼロ年代に流行ったフォーマットである(そういえば最近ってあまりセカイ系な作品って見かけないなあ)。
このフォーマットを使いつつ、ポップでキャッチーに仕上げた作品が『君の名は。』『天気の子』なのである。
あとは物語の構造が村上春樹リスペクト感強い。

この映画は本当に全体の雰囲気がすばらしい映画だ。
「全体の雰囲気がいいよ」の語彙力ない感すごいけど、マジで全体を包む雰囲気が最高なのだ。それ以外に適切な言葉がない。世界観設定もかなり中二心をくすぐってくる。
主人公の藤澤浩紀は俳優の吉岡秀隆が演じている。上手くはないんだけど、こう、良い。

個人的に好きな映画トップ5に食いこむ作品。ぜひ観ろ。

 


秒速5センチメートル

2007年3月公開

 


「秒速5センチメートル」予告編 HD版 (5 Centimeters per Second)


どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか。


~あらすじ~
東京の小学校に通う遠野貴樹と篠原明里は精神的に似通っており、互いに「他人にはわからない特別な想い」を抱き合っていた。クラスメイトたちのからかいを受けながらも一緒に時間を過ごすことが多かったふたりだが、明里の父親の仕事の都合で小学校卒業と同時に明里は栃木へ転校してしまい、それきり会うことがなくなってしまう。貴樹が中学に入学して半年が経過した夏のある日、栃木にいる明里から手紙が届く。それをきっかけに文通を重ねるようになるふたり。
やがて貴樹も種子島に引っ越すことなり、ふたりの距離は物理的にも精神的にも離れていく。


鬱映画として名高い。

山崎まさよしのミュージックビデオとしても名高い。

君の名は。』が公開される前までは氏のもっとも有名で人気のある作品であった。
3章からなる連作短編であり、全体的に男がずっとウジウジしている。

おれも初めて見た時は多感なお年頃だったということもあり、結末のあまりの悲しさに食欲をなくしてしまった。

これもまた地味な筋立ての映画なのである。

特に大きなドラマがあるわけではない。ひたすら美しい風景とジメっとした雰囲気が画面を支配している。それで終わり。
ほしのこえ』や『雲のむこう、約束の場所』のようなSF世界ではなく、リアリズム世界の話である。セカイ系ではない。非常に地味である。
地味なはずなのだが、確実に胸に"くる"作品だ。
嫌なことがあった日の夜ひとりで部屋をまっくらにして観ろ。

最後に流れる山崎まさよしの『One more chance,One more chance』がとてもよい効果を出している。今考えると「RAD早回し」の原型なのだろうか。

 


星を追う子ども

2011年5月公開

 


星を追う子ども(予告編)


それは、“さよなら”を言うための旅。


〜あらすじ〜
幼い頃に父を亡くした明日菜は、母と二人で暮らしている。ある日、秘密基地へ向かう途中、見たこともない怪獣に襲われたところを「アガルタ」から来たという少年・シュンに助けられる。翌日、秘密基地で再会し仲良くなった二人はまた会う約束をするが、後日シュンが遺体で発見される。
シュンの死に実感が湧かない明日菜は、新任教師の森崎の授業で聞いた「死後の世界」に強い興味を抱く。世界各地には地下世界の伝承が残り、シュンが故郷であると語ったアガルタもその一つで、そこには莫大な富や死者の復活すら可能にする技術があるという。
その日の帰り道、明日菜は秘密基地でシュンに瓜二つの少年・シンと出会う。彼は兄が持ち出したアガルタへの道の鍵となる石「クラヴィス(clavis)」を回収しに来ていた。するとそこに武装した兵隊と森崎が現れる。森崎はアガルタの秘密を狙う組織「アルカンジェリ」の一員だった。彼の目的はアガルタで亡妻・リサを蘇らせることであった。シュンが遺したクラヴィスを回収したシンはアガルタへと去り、残された明日菜も森崎についていくことを決め、ミミを加えた二人と一匹は、広大な地下世界を旅することとなる。


これまでとはだいぶ毛色が違いますね。
今のところ一番「らしくない作品」である。

「『君の名は。』で大衆に迎合しやがって!」と文句言っていたオタクはこの映画についてどう思っているんだ? どう思ったんだ?
これがヒットしていたら怒り狂っていたのかもしれないが、『星を追う子ども』はまったく話題にならず、興行収入も2,000万円程度だった。まあ震災直後だったというのが大きいかもしれん。
そんなわけで「売れなかったからオッケー」ということでオタクに赦されている作品である。まったく、オタクというのは本当に身勝手な生き物だと思わないかね。

これまではある程度精神的に成長している人間でなければ味わえない作品ばかりだったが、『星を追う子ども』は全年齢対象版新海誠みたいな映画である。ひょっとするとここから映画に対する意識が変わったのかもしれない。

この作品一言で表すと「地味なジブリ」である。
宮崎吾朗監督作品だと言われても違和感がない(駿ではなく)。実際、意識的にジブリや日本の伝統的な映画をオマージュしたとのことである。
舞台設定や舞台装置を考えれば「派手になる作品」のはずなのだが、「地味なファンタジー映画」というところに落ち着いてしまっている感がある。もちろん従来作品と比べるとエンターテイメントしていて、ヤマもオチもあるのだが、カタルシスに欠ける。

これまた『ほしのこえ』『雲のむこう、約束の場所』『秒速5センチメートル』と同じように、ハッピーエンドというわけではなかった。若干のさみしさやせつなさを残して終わる。
設定の作りこみは相変わらずすさまじい。

もちろんファンからは賛否の分かれる形となり、ショックを受けた新海誠は寝こんでしまったらしい。
プロデュースやマッチングの大切さを痛感し、これ以降、アニメーション監督としてやっていくことを決意したとのことで、この失敗?がなければ『君の名は。』は生まれなかったのかもしれない。

 


言の葉の庭

2013年8月公開


映画『言の葉の庭』予告編映像


"愛"よりも昔、"孤悲"のものがたり。

~あらすじ~
靴職人を目指す高校生の秋月孝雄は、雨の日の1限は授業をサボって、庭園で靴のデザインを考えていた。ある日、タカオはそこで昼間からビールを飲んでいる女性、雪野百香里に出会う。見覚えのある顔であったため、どこかで会ったかとタカオが尋ねると、ユキノは否定し、万葉集の短歌 「雷神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」 を言い残して去っていった。
こうして、雨の日の午前だけの2人の交流がはじまる。タカオは靴職人になる夢を語り、味覚障害を患うユキノは、タカオの作る弁当の料理に味を感じられるようになる。ある日、ユキノはタカオに「靴作りの本」をプレゼントし、タカオは今作っている靴をユキノのために作ることにする。
その後梅雨が明け、しばらくの間2人は逢わなくなるが、2学期になった夏のある日、タカオはユキノの秘密を知る。


全国23館で料金は1000円均一ながら、公開3日間で興収3000万円というヒットを記録した。最終的な興行収入は1.5億円。

『秒速』にちょっとだけ回帰しつつ明るい作風となっている。前作があまりにアレだったためファンは歓んだ。
主人公はなよなよしつつ直情的なところもあり、今まで出てこなかったタイプだ。

やはり筋立てはまあまあ地味である。題材や舞台の都合上地味にならざるをえないし、派手にするわけにはいかないのだが。
地味地味言ってますがマジで良い作品だよ。なんかこう、ここで書けることは少ないのだが。

これまでと違って「わりやすい」作品でもある。だれも混乱することなく鑑賞を終えられるだろう。
それでもやっぱり「ハッピーエンド!」にはならなかった。ビターエンドくらい。

おれはこの映画を観たとき「新海誠にしては明るい映画だな。たまにはこういうのも描きたいんだね」と思った。
まさか次作であんなことになるとはだれが想像しただろうか。

ところで『言の葉の庭』は50分弱という短い時間で新海誠の性癖が遺憾なく発揮されている。つづく『君の名は。』『天気の子』で確信したけど、あいつ絶対姉萌えだわ。

 


君の名は。

2016年8月公開


「君の名は。」予告

まだ会ったことのない君を、探している。

~あらすじ~

みんな観ただろうし割愛。


なにが起きた。

川村元気によるプロデュース、田中将賀によるキャラクターデザイン、RADWIMPSの起用、人気俳優の起用、大規模な興行、プロモーション。
売れるために作られたサイボーグかな?

公開前から、オタクは予感していた。
君の名は。』は、今までと違う作品だと。

ふたを開けてみると、ド級のエンタメであった。
とにかく派手な映画だった。

君の名は。』は超絶ブームを起こした。
異例のロングラン上映。海外でも大ヒット。興行成績は『千と千尋の神隠し』に次ぐ、邦画史上二位。全世界興行収入は邦画では一位である。

新海誠は一躍時の人となり、日本を代表するクリエイターになった。
あれ? 書いていて泣きそうになってきた。

オタクは……おれは、そのさまを呆けて見ていた。
陰キャ向け?の地味良い映画を丁寧にコンスタントに作っていた新海誠が、ずいぶん遠いところまで行ってしまったからだ。

おれは思った。
頭のいい大人が売れる映画をがんばって作ると売れるんだなあと。

君の名は。』はなによりもカタルシスが優先された映画だ。ジャンクと言ってもいい。
いちいち派手なのだ。
これまでのような地味映画ではない。

物語の辻褄や事象に対しての蓋然性などかなり無視したつくりになっている。今までの作品はそういったところは丁寧に処理されたり、処理していると見せかけてされていなかったりしたのだが、『君の名は。』はおざなりな部分が非常に多い。
それはきっと物語を、エンターテイメントであることをなによりも優先させた結果なのだと思う。
実際、おれは観ている間は違和感とかどこかに消えてどうでもよくなってしまったし。

「RAD早回し」もある種そうだ。
物語の一部分をRADWIMPSの楽曲を流しながらダイジェスト的に断片的に描写するアレ。
上映時間も「できるだけ短くする努力をした」のもそう。
「冗長にならない」ことを念頭につくられている。

君の名は。』はある種集大成的な作品といえる。

まず「セカイ系」のフォーマットを用いているのは『雲のむこう、約束の場所』から。
時間軸のすれ違っているメールのやりとりは『ほしのこえ』を思い出させる。
宮水神社の御神体の風景はなんとなく『星を追う子ども』で見た気がする。
最後の、電車で主人公ふたりがすれ違う場面は『秒速5センチメートル』だ。

それまでの作品と決定的に違うのがラストシーンだ。
未来への希望を持って終わる、ハッピーエンド。

おれは衝撃を受けた。というか、みんなもそうだろう?
どうせ「ふたり」は会えないまま終わるのだろうと思ったら、会えたのだ。

これまで新海誠作品にふれてこなかった人は、あのラストに違和感など覚えない。
「てか再会するのが普通っしょ?」と言うかもしれない。

いやいやいや新海誠はいつも人と人を引き裂いてきたのだ。
それでさみしさとせつなさを残して映画が終わっていたのだ。

でも、ふたりはまた会った。
会えないと見せかけて、会った。

新海誠の初稿だとラストシーンがどうなっていたのか非常に気になるところだ。なんかそれについて話していたインタビュー記事なかったっけ。
この記事を書いた3日後にアップされたインタビューで明言されていました。初稿から明るい終わり方だったらしいです。

あの終わり方は、これまでの作風やファンとの決別なのかなと思った。
これまでのあらゆる作品の要素を取り入れつつ、最後の最後で「これまでではありえなかった」再会エンド。
「もう次の場所に行きます」というメッセージなのだろうか、とおれは思った。
そんなことべつに考えていないだろうけど。

それにしても、こんなに派手に売れたあとは非常にやりづらいぜ。
なにせ誇張ではなく「歴史に残る作品」となってしまったのだ。

次回作がどんな作品になるのか、考えられるのはざっくり分けて3パターン。

A.『君の名は。』路線のエンタメ
B. 過去作風への回帰
C. 新境地開拓

さて、どうなったかというと……

 


⑦天気の子

2019年7月公開

 


映画『天気の子』スペシャル予報


これはーー僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語。

〜あらすじ〜
都立神津島高校の1年生・森嶋帆高(もりしま ほだか)は家出して東京本土にやってくるが、ネットカフェ暮らしも数日で残金が尽きてしまい、フェリーで出会ったライターの須賀圭介を頼る。圭介は姪の夏美と2人だけの零細編集プロダクションを営んでいる。帆高は住み込み・食事付きの条件に惹かれ、そこで働くようになる。
2021年(令和3年)夏の関東地方では、長期間にわたって雨の日が続いていたが、その状況でも晴天を呼ぶ「100%の晴れ女」がいるという都市伝説が流れていた。帆高はある事件から天野陽菜(あまの ひな)という少女と出会うが、彼女こそがその晴れ女で、祈るだけで短時間・局地的にだが確実に晴れ間を呼び寄せる能力を持っていた。
陽菜は小学生の弟・凪(なぎ)と二人だけで暮らしており、彼女が金に困っている様子をみた帆高は、晴れ女の能力で商売をすることを提案する。


う〜ん、エンタメなあらすじ。もうタイトルとキービジュアルからエンタメ臭する。

観た。

エンタメだな、と思った。

さっきのABCで言うところの完全にA。
回帰した部分はなくはないBだBだと言う人は多い。人によってはCとも言うかも。けど、おれはどう見ても『君の名は。』の路線としか思えなかった。

しかしである。

Twitterでオタクどもの感想を見たところ、

新海誠が帰ってきた」

「『君の名は。』で獲得した新規層を裏切る痛快っぷり」

「前作あれだけ大衆迎合してヒットした上でこの作品はすごい」

という意見が散見された。
そしておれは怒りの打鍵を開始したのである(冒頭序文にもどる)。

まさか自分が「おれって異端?」とか言う痛いオタクになるとは思わなかった。

  

 『君の名は。』と『天気の子』はそっくり

世間のオタクに言わせれば「新海誠は『天気の子』で大衆を置き去りにした」のだそうだ。

『天気の子』では、最後、主人公の帆高は「世界の安定」をうっちゃって「愛する人の存在」を選択する。
結果として東京は壊滅する。でもふたりは生きていて、そしてこれからも一緒に生きていく。そんなラスト。

たしかに「それから雨は三年間降り続いている」はかなり衝撃を受ける展開だ。
でも、これで大衆が「意味わかんなーい!」とはならんだろう。
お前ら大衆のこと馬鹿にしすぎじゃないか? ていうかお前らは大衆ではなくてなんなんだ? なんで高次元の存在気取ってんだ?

年のため言っておくと、おれは『天気の子』はいい映画だと思った。
おもしろいと思った。上質で良質なエンターテイメントだと思った。

『天気の子』は「上手い映画」だ。
良質なエンタメとしてしっかり大衆ウケしつつ、『君の名は。』よりもオタクに優しく、監督自身が言いたいことをしっかりと物語に落としこんでいる。→インタビュー参照
超ヒット作の後の作品としては大正解だったと思う。

幅広い層が親しみやすいように作られている。
まず、老若男女だれでもわかりやすい簡潔なストーリー。
(……だとおれは思ったのだが、半端オタクに言わせると「難解」で「人を選ぶ」らしい。それ本気で言ってます? 人のこと馬鹿にしてません? 自分が特に読解力のある特別な次元にいると思いこんでません? 普段本などはお読みになられますか?)

そして一般の人が親しみやすいだけではなく、ちゃんとオタクが反応しやすいネタが散りばめられている。オタクに「ニチャア」とさせるための装置が多い。
家出して居候する主人公、特殊能力をもつヒロイン、イケショタ、ひょうひょうとした一見ダメっぽいイケオジ、快闊で頼れる巨乳のお姉さん、セカイ系のフォーマット、語られる古来の伝説、キャッチャー・イン・ザ・ライ……。
Twitterでは『天気の子』のキャラクターの造形や物語の展開がゼロ年代に見られたギャルゲーやエロゲーにたとえる遊びが盛んっぽい。

でもなあ、オタク的要素なんて、そんなのはオタクしか感じとらねえんだよ。
オタクじゃない人はそもそもセンサーがないんだから、全部スルーするんだよ。たまたまテメーのセンサーが敏感なだけだ。みっともねえから「『天気の子』はオタク向け作品!」とか声高々に言うな。
「大衆」はそもそもそんなこと気にしねえんだよ。気にならねえんだよ。違和感覚えることすらねえんだよ。

「大衆」が求めるのは、物語が易しいことと、カタルシスがあることだけだと思う。

『天気の子』は易しく、カタルシスがあった。

それは『君の名は。』路線のエンタメであることに他ならないと思うのだが。

世間のオタクに言わせると「『君の名は。』とはまったくの別物」らしいのだが、嘘だろ?
後半の物語の展開なんてまんま『君の名は。』ではないか。

おれはその点がかなり大きいガッカリポイントだった。

どちらも「ヒロイン消えちゃったけどなんだかあそこに行けばまた会えそうな気がする、と主人公が根拠なく神道的スポットに飛びこんでなんやかんやで再会するエンド」だ。

おれは『君の名は。』でつくられた型に違う液体を流しこんだだけじゃないか、と思った。
焼き直しじゃないか、と思った。成功したから同じフォーマットをつかっただけじゃないか、と思った。
それを差し置いても『天気の子』はおもしろかったのだが。

君の名は。』ではセカイもヒロインも助かった。
『天気の子』ではセカイを犠牲にしてヒロインが助かった。
ただそれが違うだけの話で、大筋は一緒だ。どちらも「ふたり」は再会しているし。

それにしても今回はなぜこんなにセカイ系セカイ系言われているのだろう。
君の名は。』だって十分すぎるほどにセカイ系なのだが、今回はあまりにはしゃいでいるオタクが多いな。まあいいわ。


君の名は。』以降で変わった作劇のポイント

まだ二作しか出ていないから「以降」とか言ってもいいのかわからんけど、『君の名は。』以降は以下のような作劇における変異がある。


①惜別の消失

新海誠作品は、必ず最後に「ふたり」は別離していた。『言の葉の庭』まで例外はなかった。

星を追う子ども』なんてキャッチコピーが「それは、“さよなら”を言うための旅」である。
雲のむこう、約束の場所』では世界もヒロインも助かったが、ヒロインのとある想いが消失した。

君の名は。』と『天気の子』では、最後に「ふたり」が再会する。これからの幸せを期待させる終わり方だ。

おれは『君の名は。』のラストで非常に慄いた。
『天気の子』のラストで「ああこれからの映画はこういうふうにオチるのね了解」と思った。

おれは新海誠を観終わったあとにこみあげる「うっ、かなしい」という気持ちがとても好きだった。

君の名は。』は、瀧と三葉が会わないまま終わったら、おれの中で名作ではなく超名作になったんだがなあ……再会しちゃったよなあ。すべてが上手くいきすぎちゃった感はある。

『天気の子』に関しては「セカイを終わらせてヒロインを選ぶ」という展開、おれもオタクなので、すなおによいと思った。
ただ、もう少しだけ犠牲のようなものがあってもよかったのかもしれない。というかすべてが上手くいきすぎている。須賀さんなんで事業成功してるんだよ。ばーさんなんでちゃっかり引っ越してるんだよ。


②主人公の「根拠はないが確信のともなった行動」、そしてそれがことごとく正解する

なぜ口噛み酒を飲んだら再度三葉と入れ替わりできると思ったのか。
なぜ鳥居をくぐったら空の上で陽菜に会えると思ったのか。
メタ的に言うと物語を象徴する大事なスポットだからそりゃそうなのだが。
けっこうこの点を指摘する人は多い。あまりにご都合すぎるだろと。
ご都合どうこうはまあアニメ映画だからおいておくとして、次回作も同じパターンやったらおれはカチキレると思う。


③舞台装置の都合の良さ

これは②とも共通するのだが、『君の名は。』で言うところのテッシー爆弾である。主人公の友達の親の会社が都合よく爆弾を扱っていて、最後に大活躍する。これはまあまだしょうがないし無理矢理感はなくはなくはない。

『天気の子』における銃は本当に都合がいいアイテムだ。たまたま拾って、撃って、それで物語が展開して、存在を忘れかけたころに手元にもどってくる。チェーホフもびっくりするくらい活躍する。
そしてその銃については刑事(彩奈の旦那のほう)が一言、ナントカが捨てた銃とか言うだけで、バックグラウンドまったく語られることがない。

まあおれもこの点に関してはべつにこれでもいいと思う。アニメ映画だし。


④説明の省略

③から繋がりました。『君の名は。』もそうだが『天気の子』ではこれが本当に顕著だった。

銃もそうだし、帆高の家庭については詳細がまったく語られない。とりあえずサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に影響を受けたことだけはわかった(やっぱり野崎孝じゃなくて村上春樹訳の方なんだな。新海誠はハルキストだもんなあ)。
家族も出てこない。島での生活の描写は皆無。回想もなし。

新海誠によると「こういった説明を省くことに批判があるとも思うが、あえてやった」とのこと。

まあおれもこの点に関してはべつにこれでもいいと思う。アニメ映画だし。


⑤お決まりの演出

はい。RAD早回しですね。二作連続で使われましたね。何気に新しいテクニックな気がする。もう特許とれ。
でもこのRAD早回しをまた見せられたのもあって、なーんか『君の名は。』の焼き直し見せられてる気分になっちゃったなおれは。

あとはいちいち派手なシーンが挟まれるようになったよね。『君の名は。』で言うところの彗星。『天気の子』で言うところの花火。観ている人が飽きないようにってことだろうね。


⑥キャラクターが強くなり、物語のスケールが大きくなった

ここマジで大きなポイント。次の試験に出るから。

かつての新海誠作品は、キャラクターデザインがよろしくなかった。
主人公ですら見た目が地味だったし、性格も無個性で地味だった。
というか人間がぜんぜん登場しない。主人公と、その周りにあと何人かいるくらい。
小さな、閉ざされた世界での話だった。

雲のむこう、約束の場所』なんて壮大な設定なのにぜんぜん人間が出てこない。出てはくるけど、だれも強烈なキャラクターはもっていない。強烈な境遇にいたりはするが。
なんなら名前だけ出てくるけど姿は登場しないヒロインの祖父が一番存在感強い可能性すらある。

新海誠はある意味「小説的な」アニメをつくる人だった。キャラクターはあくまでストーリーを動かすための装置で、強い個性をもっていなかったように思う

主人公ですらそうだ。初期三作に関してはマジで無個性。まったくの無個性かといえばそんなことはないけども、アニメ映画の登場人物としては個性がなさすぎる。

実はキャラへの個性付与は『星を追う子ども』〜『言の葉の庭』で萌芽のあった部分ではある。
星を追う子ども』の主人公は小学生にしては大人びた家庭的な少女だった。
言の葉の庭』はユキちゃん先生のキャラなしでは成り立たない。主人公もまあまあキャラ立ちしていた。
でもやっぱり物語を成り立たせる根幹を担う人数は少なかったし、当然物語のスケールも小さかった。

君の名は。』『天気の子』ではキャラクターたちがよりキャラクター性を増し、「漫画的」になった。
単純にデザインがよくなったし、みんなに性格の個性が付与された。

これについては新海誠も明確に語っている。以下インタビューより引用。

「『モブキャラクター(主要人物以外の名前のないキャラクター)一人ひとりをモブにしないように描きたい』という気持ちがあって、チンピラにせよ刑事たちにせよ、映画で見える裏側にもうひとつの人生があると思って描きました」

というように、多くの個性的な人間がたくさん物語に絡み、それぞれが欠かせないピースとして扱われている。

それまで少人数劇だったものが、大規模な群像劇となった(群像、とはいってもとはいっても根幹は「ふたり」の「セカイ」なのだが)。

これもおれが最近の新海誠作品に感じているさみしさポイントのひとつである。
おれは新海誠の「必要最低限の少人数で閉ざされた世界」を描く作風が好きだったからだ。
雲のむこう、約束の場所』のような壮大な世界観の中で、あえて壮大になりすぎない話が好きだった。スケールの大きい話も、それはそれでおもしろいのだが。

 

⑦登場人物がみんな健康

最近はウジウジしている人間も、倒錯している人間も出てこなくなった。

マジでみんな健康的。
新海誠作品の主人公は「ウジウジした男」しかなれなかったはずなのだ(『星を追う子ども』は例外的に主人公が女児だが、パーティにはウジウジした上に倒錯している男がいる)。
主人公は『言の葉の庭』までみんな陰キャだったのだ。

瀧くんは好青年だし帆高も素直でいい子。
帆高は素直すぎてこちらが恥ずかしくなるような台詞を言ったり行動をとったりする。

主人公が陽キャになったのは広い層に親しまれるため説。
エヴァンゲリオン』はシンジくんがあんな性格だから、オタクにしか親しまれないんすよ。

 

カタルシス重視で派手な作劇

さっきから言ってる通りっすね。

 

 


と、以上のことを考えると、どうもおれは『天気の子』は『君の名は。』の延長にある作品としか思えないのだ。
もちろん安易に意識的に『君の名は。』をなぞったわけではないと思うが、結果としてそうなっちゃってるよね。

人気ラーメン屋のセカンドブランド店みたいな感じ。本店では使わない素材使ってますみたいな。本店よりちょっとだけ尖ったメニューになってますみたいな。でも激辛とかではないのでみなさま美味しくいただけますみたいな。
んで一部のラーメンマニアが「ムムッ、広く一般的な大衆に親しまれるような本店とは違い、これは素人には理解できないすばらしいラーメンだ!」って騒いでいるみたいな。

でも来店した多くの人はニュートラルな気持ちで「おいしいね!」って食べているみたいな。

オタクは「ヒット作のあとにしては挑戦的な作品だ」などとのたまっているが、それは些事を注視しすぎだと思う。

映画のつくりの話をすると、先ほども言ったが演出にせよ展開にせよキャラ造形にせよ『君の名は。』の焼き直しという印象があまりに強い

筋立てもそうだがRADWIMPSだってそうだ。
おれはまたRADが音楽を担当すると聞いたとき、かなりがっかりした。
「つづけて起用するなんてプライドないのか?」とすら思った。何作か空けてとかだったら「またあのタッグが見れるのか!」とワクワクしたと思うが、つづけてだと萎える。

なぜなら、RADはまた『君の名は。』と同じような使われ方がするのを想像できたからだ。あたりまえだけどやっぱりそうだったよね。

「『天気の子』のプロット書いたらたまたまRADWIMPSが合致すると思ったんです。たまたま。RADの楽曲が必然だと思ったので起用しました。無理矢理起用したとか最初から起用しようと思ったわけではなくて、たまたまRADが必要な映画になったんです」ということなのかもしれないが、つまりそれは「『RADが必要』という考えにいきつく作品しかつくれなくなっている」のに他ならないのかもしれない。
なぜRADWIMPSが再起用されたのか、詳しくインタビューとかで話してないですかね。知っている人いたらおしえてほしい。
→この記事書いた3日後のインタビューでRADWIMPSが起用された経緯について語れていた。まあおれが書いたことと近からず遠からずでしたね。

 

 

最後に

そんなわけで、『天気の子』は『君の名は。』の延長にある作品、オタクの言う「原点回帰」はちょっとちゃうやろということを言うために15,000文字ほど使いました。

新海誠はインタビューで「『天気の子』は『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい映画にしようと思った。「怒られないようにしよう」というふうには思わなかったです」と語っている。


たしかに怒る人は怒る映画だ。
でもそれと同時に「さまざまな人種に文句を言われにくい」映画でもあったと思う。

ラストが本当に上手い。
「ふたりは助かるけどセカイは破滅する」というのは
ある人にとっては「ハッピーエンド」
ある人にとっては「挑戦的な展開」
なのだ。
多方面から、いろんな視線から、評価されるラストだった。
だから「新海誠やりやがった!」と騒ぐオタクも出てくるのだろうよ。

『天気の子』はヒット後第一作として正解を打ち出した映画である。
君の名は。』の路線を踏襲しつつ、ほんの若干だが「従来の新海誠らしさ」をとりもどし、オタクがキャッキャできる要素を加えてくれた。

次の作品がどうなるのか本当に楽しみである。
ただ個人的には『君の名は。』フォーマットはもうかんべんしてほしいところだ。

 

小説 天気の子 (角川文庫)

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