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鬼頭莫宏『ぼくらの』再考

 

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当記事には『ぼくらの』の軽いネタバレが含まれるため、作品を未読で、なんの情報もなくまっさらな気持ちで読みたいという方は読むのをおひかえください。

 

いまさら『ぼくらの』って、なんでやねん。

と思った人も多いかもしれない。
筆者もそう思う。

この記事の執筆の動機としては、単純に筆者が「『ぼくらの』って作品、あらためてめっちゃいいよな。書いてみるか」と気が向いたから、だけである。

まあちょっと前に漫画の完全版も出たわけですし(って、もう去年の話なのか……)。

さて、この『ぼくらの』という作品は具体的になにがどうよいのか、つらつらと語っていこうと思う。

『ぼくらの』とは

『ぼくらの』は小学館の青年誌『IKKI』で連載されていた、えーと、SF?漫画である。

2007年にアニメ化もした(は? あの時に生まれた子供が今中学2年生ってこと?)。
インターネット老人会のみなさんは「オオオエエアアエエ」という印象的すぎるコーラスではじまる主題歌『アンインストール』を一度は聞いたことがあるだろう。

 


www.youtube.com

 

これ主題歌云々とか抜きにしてめっちゃいい歌詞でめっちゃいいメロディでめっちゃいいアレンジなんよ。

作品のあらすじは……まあこの記事にたどり着いて読んでいる人は『ぼくらの』はすでに漫画かアニメで履修済みかと思うが……一応Wikipediaから引用。

夏休みに自然学校に参加した少年少女15人は、海岸沿いの洞窟でココペリと名乗る謎の男に出会う。子供たちは「自分の作ったゲームをしないか」とココペリに誘われる。
ゲームの内容は、「子供たちが無敵の巨大ロボットを操縦し、地球を襲う巨大な敵を倒して地球を守る」というもの。兄のウシロに止められたカナを除く14人は、ただのコンピュータゲームだと思い、ココペリと契約を結ぶ。
その晩、黒い巨大なロボットと敵が出現する。ロボットの中のコックピットに転送された子供たち15人の前には、ココペリと、コエムシと名乗る口の悪いマスコットが待っていた。これが黒いロボット・ジアースの最初の戦いであった。
戦闘を重ねるにつれ、子供たちはゲームの真の意味を目の当たりにすることになる。

読んだことがない人はこちらのリンクから一話無料で読めるのでどうぞ(めっちゃ読みにくい仕様だけど)。

 

さて、この『ぼくらの』という作品、漫画とアニメでかなり印象の違う作品となっていることはご存知だろうか。

「そんなの知ってるよ。アニメは漫画の連載が終わっていない段階で制作されたから、展開が違うんだろ」

とおっしゃる方もいるかもしれない。
いや、それは間違いないのだが、筆者が言いたいのはそこではない。
作品の風味がけっこう異なるのだ。

漫画・ゲーム・小説のアニメ化には3種類ある(と便宜上定義します)。

・原作に忠実なアニメ化
・原作の再現はそもそも考えられていない、オリジナリティあふれるアニメ化
・原作から大きく逸れてはいないが細かい改変が多く、結果原作とは微妙に異なる風味となった作品

昔はアグレッシヴなアニメ化も多かったが、近年だと原作に忠実なアニメ化が多い印象である(なお筆者は『魔法少女まどかマギカ』あたりでアニメの視聴を熱心にしなくなったのでマジで「印象」だけでしゃべっています。本当にすみません)。
まあ「原作に忠実なアニメ化」は無難ではあるし、評価されるしな。

さて、『ぼくらの』のアニメだが、これは3つめの「原作から大きく逸れてはいないが細かい改変が多く、結果原作とは微妙に異なる風味となった作品」にあたる。

概ねは、漫画と同じである。
ただ細かい部分にかなり改変が多い。
そしてそれがうまく作用していない。

これは監督を務めた森田宏幸がある種の「思想」をもってかなり手を加えたからにほかならない。

森田は 自身のブログで放映期間中に以下のように語っている。

私自身が原作を嫌いで、アニメーション化にあたり、ある意味原作に悪意を持った改変を加えていることを認めます。」
「原作で嫌いなところのひとつは、子供たちの死に行く運命を作者が肯定してしまっているかのように感じられる点です」
「アニメーション版「ぼくらの」の監督は原作が嫌いです。今後、原作にある魅力がアニメーション版で展開されることは期待できません。だから、原作ファンの方々は、今後アニメーション版を見ないでください」
「ナカマ篇など、大幅な改変によって、原作をはっきりと否定していること、ここに明言しておきます」

あたりまえだが物議を醸しに醸した。

この言葉の通り、アニメ版は監督である森田宏幸の「思想」の介入が著しいのである。

改変点について詳しくは割愛するが、「まわりの大人たちや、主人公の子供たちを取り巻く社会の描き方を変え」た点は特に残念だったと思う。

とりあえずこれだけは最初に言っておきたいのだが、『ぼくらの』は圧倒的に漫画のほうがおもしろく、味わい深いということを明言しておく。 

終盤のアニメオリジナル展開はそこまで悪いものではない。
あと主題歌はめっちゃいい。

ただ、アニメ版は原作のいい部分を削ぎ落としてしまいすぎている。

そのため、これから語ることはすべて漫画版準拠だということをご留意いただきたい。

ここがいいよ『ぼくらの』

さて、長過ぎる前置きはこのへんにして。
『ぼくらの』の魅力とはなんぞや。

リアリティのある世界と、異質なジアース

ジアースというのは主人公たちが繰るロボット?の名称である。

ジアースが特徴的なのはその「超常さ」だ。

たとえばエヴァンゲリオンなんかはわりとリアリティがあって、その管理や維持費が至極面倒なことを作中でくりかえしくりかえし描写される(それが『エヴァンゲリオン』という作品の魅力とも言える)。

対してジアースは、とにかく超常的な存在である。

異世界から降ってきたかのようにある日突然現れた機体。
操作に物理的なコントローラーは必要はなくパイロットの意思と自動連動。
地球上の兵器はまったく効かず、核兵器ですらその装甲に傷をつけることは一切できない。素材も未知。
「敵」の攻撃で損傷が出ても次の戦いにまで完全修復する。
戦闘時のみ姿を現し終了後にはどこかに消える。

いわゆる「科学」では説明のできない、まさに「神の産物」とも言えるロボットである。

『ぼくらの』は基本的に登場人物や世界の人たちの考え方がリアルだ。
大胆な歴史改変がされた世界(後述)ではあるものの、ファンタジーではない。
そこにポンと超常的存在のロボットが放りこまれ、人類はいきなり「敵」と戦うことを強いられる。
「敵」には「日本政府」が「リアルな考え」を持って、対応していく。

シン・ゴジラ』だ。
完全に『シン・ゴジラ』とノリが一緒なのだ。

シン・ゴジラ』ではリアリティのある世界で、リアリティのない怪獣に政府が科学をもって挑む様が描かれた。
シン・ゴジラ』はそのチグハグさがおもしろいと評価されたが、『ぼくらの』にも同様の評価の仕方ができると言えよう。

鬼頭莫宏エヴァ破に使徒デザインで関わっているし、当然著作を読んでいるであろう庵野秀明が影響を受けた……ってことはまあないだろうな。

『ぼくらの』以前にこういう作品ってあったかな。
だれかおしえてください。

淡々として救いのない展開

鬼頭莫宏といえば「登場人物がぐちゃぐちゃ死ぬ漫画を描いている人」という印象をもっている人も多いかもしれない。

どっこい、実際に人間がバンバン死ぬのは『なるたる』と『ぼくらの』だけである。
とは言ってもこの二作が代表作なのでこういったイメージになるのはしかたがないかもしれない。

余談だが、筆者は鬼頭莫宏作のほのぼの日常系自転車漫画(ガチです)の『のりりん』を読んでいるときは「いつかこのヒロインも事故に遭って、脚を切断することになって、『すまんち……もう自転車乗れなくなってしまったけん』なんて言い出すんだろうな、きっと」などと考えていた。

この漫画、とにかくまあ一切の慈悲がない。

人は死ぬし、助からない。
淡々と死ぬ。

死に際は美しかったり、醜かったり、どちらともとれなかったりする。

その描写には「死が肯定されている」感じは一切しないけどな、と筆者は思う。

本当の意味で「勧善懲悪ではない」

「単純な勧善懲悪モノではない点がいいよね」と評価される作品でも、どうしても主人公の敵サイドはある程度悪役っぽく描かれる。
ゴールデンカムイ』の鶴見中尉だって、わりと悪役のフォーマットにのっとって描かれているでしょう。

その点『ぼくらの』はガチのマジで完全な「非・勧善懲悪」である。
あんまり説明するとネタバレになるので一応避けておく。

緻密な"人間"描写

パイロットである少年少女15人がどういった人間なのか、どういった環境に身をおいているのか、どういった気持ちで戦いに臨むのか、克明に掘り下げる、掘り下げまくる。

パイロットに限らず、周辺の大人たちの心情なども掘り下げまくる。

『ぼくらの』はあらすじだけ見るとよくあるSFロボットものだが、バトル漫画ではない。
というか、戦闘にまったく重きが置かれない。

ちょっとしたネタバレになるが、戦闘シーンがまるまるカットされる回なんかもある(かなりしびれた)。
なんなら戦わずして勝利する回もある(かなりしびれた)。

『ぼくらの』はSF、ロボットモノをフォーマットに使用しただけの人間ドラマなのだ、と言っても過言ではないだろう。

『ぼくらの』という作品におけるスパイス

……と、ここまで挙げた点のみで作品が構築されていた場合、『ぼくらの』は「良作」止まりだったかもしれない。

『ぼくらの』を「奇形の傑作」たらしめている点、それは大筋とは関係のない、凝られた世界観設定である。

アニメ版の残念なポイントは、この描写を削ぎ落としたことだ。
よって筆者としては、アニメ版は原作を差し置いてまであえて観る価値のあるものではないと思う。
まあわかりやすさを追求したのかもしれないが。

さて、以下にどんな「スパイス」が盛り込まれているのか紹介していく。

日乃レポート

『ぼくらの』は2036年くらいの近未来の日本が舞台である。

正直、これは必須の要素ではない。
別に現代を舞台にしたって問題はなかったはずだ。

しかしこの近未来設定が作品にいい味わいを与えているのである。

そしてこれ、ただの近未来日本ではない。
クーデターによって現実の政府機構とはまったく違う姿に変貌した日本、が舞台なのである。

『ぼくらの』は実は「歴史改変モノ」の側面も持っているのだ。

『ぼくらの』の世界は20世紀までは現実世界とほとんど同じ歴史を辿ったのだが、21世紀初頭に「日乃レポート」が実行されたことによって大きく道を変えた。

ひ、ひのれぽーと?
読者にすら「それなんだっけ?」と思った方もいると思う。

説明しよう、「日乃レポート」とはーー
本編より25年前に実行されたクーデター計画である。

鬼頭莫宏の旧作『なるたる』にも極秘計画として登場する。
出版社を超えての設定共有である。
なるたる』ではあくまでも構想が紹介される程度のものだったが、『ぼくらの』ではそれが実行された世界の話となっている(リアルタイムで読んだファンは感動しただろうな)。

日乃レポートを実行したのは、政府と自衛隊の一部。
このクーデターが成功すると、日本は日米安保条約を破棄し、在日・極東米軍と交戦し、アメリカを追い出し、属国状態を脱却して自立。
あと改憲して自衛隊国防軍へと発展的解消。
そんでもって外交では親・中国の路線をとり、中国との間に日中安保条約が結ばれる。
アメリカは完全に敵国。

つまり世界は緊張していて、かなりキナくさい状態にあるのだ。
そこで日本政府はジアースの力を軍事的に利用しようとする。
各国もジアースの存在によって揺さぶられる。

この世界観設定があることで、『ぼくらの』は「ただ、少年少女が戦って世界を救うだけの話」に収まらないのである。

天津条約

「天津条約」とは、『ぼくらの』世界において中国の天津で締結された国際条約である。

これに批准した国は「無人兵器の所持・運用を規制する」というもの(おそらく全世界の国が批准済み)。
作中に登場する戦闘機などの兵器は(一部を除いて)すべて有人兵器である。

これもまたいい設定なんだワ。
終盤でこの条約が持ち出され、作品の主題とも言える「自らの手で命を奪うことの意義」「命の重さ」が語られるのである。

独自の素粒子

これも『なるたる』に登場した設定である。
どういったものかと言うと、

・この世は三次元のマトリックス状に配置された、移動しない素粒子で均質に満たされている。
・その素粒子の中を「物質」が移動するのではなく「情報」が移動している。
・「情報」の「位置」を瞬時に書き換えることによってテレポーテーションが可能。
・「情報」は容易に複製ができるが、「魂」だけは複製ができない。

……なに言ってるのかわかりませんよね、すみません。
詳しくは該当の巻を読んでくれ、としか言えない。

これまたジアースの超常的現象を説明する上でかなりの「それっぽさ」を演出している。
ていうかこの素粒子論って本当なんじゃ、みたいなそれっぽさすごいな。
そして「魂」は複製できないってのが、またいい。

最後に

さらっと書いて短く終わろうと思ったら6000字近くになっていた。

『ぼくらの』を読んだことのない人は興味をもっていただけたら、
『ぼくらの』を読んだことのある人は「そうそう、いい作品だったよなあ」としみじみしていただけたら、幸いである。

そしてアニメ版しか観たことがないって人は絶対に漫画版を読んでほしい。
本当に作品の奥行きが違う別物だから。
あとコエムシの印象がガラッと変わるから。

陰鬱なイメージが強いけど、漫画版はむしろ爽快感のほうが強いまであるから。
まあそれと同時にアニメより陰鬱さが強いですが。

『ぼくらの』が嫌いではない監督の手での再アニメ化、待ってます。
なるたる』の再アニメ化も、待ってます。
どっちも最近完全版出たし、再ブレイクするとは思うんだけどなあ……と思ったけど『シャーマンキング』も『封神演義』も奮ってませんね。

そして鬼頭莫宏先生が回復され『双子の帝國』が復活しますよう……。