なぜギタリストは下手クソが多いのか
こんな記事を書いたらわりとバズってしまった。
寄せられたコメントを見ると賛否両論喧々諤々といった具合で、40%の賛同と40%の罵倒と20%の「記事の中身読んでなくて(あるいは読めてなくて)適当なこと言ってるやつ」という感じでした。
まあタイトルが強すぎたきらいはあるし、内容もいささか主観的なところがあったし、文章にも癖があるし、当然の帰結ではある。
というわけで、この記事では前回の二の舞にならないように細心の注意をはらって……いません。
今回もおおむねそういうノリのタイトルと記事内容になっている。
とはいえ反省を活かしてアナウンスはしておく。
・タイトルでムカついた人は読まないでください。あるいは最後まで読んでください。
・この記事で言う「ギター」「ギタリスト」はクラシックギターやジャズにおけるギターではなく「ロックバンドのエレキギター」にフォーカスしています。
・筆者自身の音楽的能力の低さ、演奏技術の拙さは棚に上げています。
・趣味でギターをやっている人についてはまったく咎めるつもりはありません。
・人には人の乳酸菌、人には人のイデオロギーがあるように、記事中で語るプレイスタイルのギタリストを全否定するつもりはありません。
・ジャンルによっては筆者の主張があてはまらないことも理解しています。
こんなものでいいか。では本編に入ります。
目次
- イントロ
- ①基本独学だから
- ②理論がわからないから
- ③ある程度は才能で弾けちゃうから
- ④弾けたらそれだけで恰好ついちゃうから
- ⑤味・パッションを言い訳にしてるから
- ⑥バンドに及ぼす影響力が小さいから
- ⑦アタック感がないから
- ⑧コード弾きばっかしてるから
- アウトロ
イントロ
ギター。
おそらく日本で一番演奏人口が多い楽器である。
いやいやピアノだろクラリネットだろという声も上がってきそう。たしかに幼少期にピアノを習う人はかなり多いし、吹奏楽部でクラリネットを担当する人だってそれなりの数がいるわけだが、みんな大人になるとパタリとやめてしまうわけで、アクティブに稼働している演奏人口が一番多いのはギターだろう。
ゆえにそもそもの母数が多いわけだが、だからといって単純に下手クソが多いわけではない。
その人口のうち下手クソの割合が圧倒的に多いのが、ギターという楽器である。
さて、なぜギターは下手クソが多くなってしまうのか(これの是非を議論していると記事にならないので断言して進みます)。
①基本独学だから
ピアノ、ヴァイオリンなどの弦楽器、クラリネットなどの管楽器を独学ではじめる人は少ない。
なぜならこれらの楽器はそもそもの演奏技能の習得が難しい上に、主戦場となるクラシック分野を演奏するにはそれなりの知識が必要だからである。
対してギター。
これはもうほとんどの人が独学ではじめるのではなかろうか。
初期投資費も安く済ませられ、(エレキで、アンプに繋いだりしなければ)音も大きくなく、部屋に置いても専有面積が小さいため、気軽にひとりではじめることができる。
そして独学でもある程度弾けるようになるところまでは容易であり、ロックやポップスであれば基本的にコードとキーくらいがわかれば演奏も作曲もできる。
というわけで、西洋音楽の基礎を押さえないまま習得しがち、そしてそのままでいがちなのである。
べつにそれが悪いことだとは言わないが、西洋音楽の基礎を押さえておかないと人と音楽をやるときに共通言語がなくて困ってしまうぞい(そういうことについて書いた記事はこちら)。
対してドラムなんかはわりとプロのレッスンに通っている人が多い印象である。筆者の体感としては9割の人が非独学。
そのためドラマーは楽譜を読める人がギタリストやベーシストに比べ圧倒的に多い。ていうかドラムはわりと楽譜を理解していないと演奏できない楽器である。
ドラムは家で練習がやりにくいというのもあるが、そもそも独学で習得するにはなかなかしんどい楽器で、なのでだれかに習うことが多い。
その点ギターはわりと独学でもある程度は習得可能で、そのために上手い人に習おうという意志が希薄となり、ゆえに基礎をすっとばしている(=下手クソになる要因のひとつ)ことが非常に多いのだと思う。
でもやっぱりね、筆者の周りの上手いギタリストやベーシストはちゃんとレッスンに通っていた人だし、独学でもしっかり理論勉強した人ばかりですわよ。
②理論がわからないから
①でも述べたように、理論がわかる人・楽譜を読める人が非常に少ない。
本当に少ない。
いない。
拍子の概念すら知らないでやっている人もめずらしくはない。
ギターの教則本などでも「楽譜を読めるようになろう!」みたいなプロセスをそもそも載せていないことも多い印象である。
③ある程度は才能で弾けちゃうから
筆者の周りには「なんとなくネックを抑えて、出た音を弾いている。これがなんのコードかはわからないけれど、とにかくそれっぽい音が鳴っているので、これでいい」という人間が何人もいる。
ひとりふたりではなく、何人もいるのである。
海外の著名なプロミュージシャンでもけっこういたはず。
これは本当に不思議で、ほかの楽器ではまず見ない現象な気がしている(ピアノとかで本当に稀にいるけど)。
太鼓とかならまだしも、なんであんな複雑な構造の楽器を本能で弾けてしまうんだよ。素直にすげーよ。
④弾けたらそれだけで恰好ついちゃうから
これは筆者の持論なのだが「演奏が難しい楽器」=「ライブパフォーマンスが難しい楽器」だと思っている。
「タンバリンならおれでも叩ける」「トライアングルくらいならできる」などとのたまったりする人もいるが、じゃあパーカッションで30分ステージをこなしてみろと思う。
聴衆に「違和感なく」「魅せる」ことを意識すると、実はピンボーカルとパーカッションがダントツで難しい。
対してギター、そしてベース。
なにをどう弾いてもそれなりに恰好ついてしまうのである。
どれだけ簡単なフレーズでも、もはやギターを弾いているだけで恰好いい。
亀川千代は棒立ちで直線的なフレーズしか弾かないが、格好いい。
音楽に造詣のない人からしたらギターを弾いている人を前にしてもなにやってるかわからない。ギター弾いてるってだけでもう私を抱いて状態である。
ドラムなんかは下手クソだとすぐバレますからね。人に見せられるようになるまで・人を魅せられるようになるまで時間と労力を要します。
⑤味・パッションを言い訳にしてるから
あくまでも筆者の体感で主観でしかないのだが、ギタリストは「いや、これがおれの味なんで」を言い訳に下手クソであることを正当化しがちな気がしている。
直線的なフレーズしか弾けないくせに「直線的なフレーズを弾くのがおれのスタイル」などと言いがちな気がしている。
パッションプレイしかできないだけなのに「ギターはパッションで弾くもの」と思っちゃっている人が多い気がしている。
ドラマーなんかは「おれはまだまだ下手だからもっと練習して上手くならなきゃ」という気持ちを持っている人が通常だと思うんだけど、ギタリストにそういった考えの人はめちゃくちゃ少ない印象。
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さて、ここまで挙げた要素だが実はベース・ベーシストとも共通する事項である。
これより以下はギター・ギタリスト独自の要素について述べたいと思う。
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⑥バンドに及ぼす影響力が小さいから
バンドをやったことがある人ならわかると思うが、ベースやドラムに比べると、ギターはバンドに及ぼす力が圧倒的に小さい。
バンドというのはドラムが上手くてベースが最低限弾けていればそれだけで「普通に良いバンド」となることができる。
ギターが下手でもベースとドラムが抜群であればある程度カバーできる。わりと自由にプレイしても問題ないし、ミスをしても目立ちにくい。
わりと甘えられる環境にあるため、無自覚に甘えてしまっている人は少なくない……と思う。
⑦アタック感がないから
これもギターの責任感が薄まることの一助となっている要素。
世間ではエレキギターを「攻撃的な音を出す楽器」と誤解している人も多い(いや音作りによってはいくらでも攻撃的にできるけどさ)が、そのイメージとは裏腹にエレキギターはアタック(音の出始め)が柔らかい。
世間で「優しい音色」だと思われているアコースティックギターの方が激烈にアタックが強い。
このエレキギターのアタック感のなさが起因で、テンポ、リズム、タイム感への意識が薄いギタリストが多い(=下手クソが多い)のではないかと、筆者は推理している。ごめん、これはガチの想像です。
てかベースとドラムのことを「リズム隊」と表現するのもよくないと思う。ギターだってリズム刻んでるのに。ギタリストがさらにリズムを意識しなくなっちゃうだろうが。
⑧コード弾きばっかしてるから
これが書きたくてこの記事を書いたのでこれまでのはすべて前置きです。
コード弾き、やめろ。
コード弾きなんかしてもひとつもいいことはない。
今すぐやめろ。
それかギターやめろ。
いやすみません、極端なことを言っているのは自覚していますが、わざとなんで……。
ギターを弾きはじめるにあたってみなさんが一番最初にやることはおそらくコード弾きの習得かと思う。
最初はそれでいいし、そうであるべきだとは思うが、コード弾きが基本になってはいけない。
たしかに、パンクなどの音圧とパッションが第一の音楽、シューゲイズなどの音の壁をつくることが目的の音楽、ベースレスのツーピースバンドといったコード弾き主体にならざるをえないバンドもなくはない。
しかしそれ以外のバンドよ。ベースがルートを弾いているのに、まったく同じ役割のコード弾きをわざわざする必要がどこにあろうか。ギターがふたりいてふたりともコード弾きする必要がどこにあろうか。
ない。
「でもコード弾き以外にやることがない」んだったら、弾くな。
「おれはボーカルだから歌いながら難しいフレーズは弾けない」んだったら、弾くな。
とりあえずでコードを弾くな。
無難と思いきや、そうでもないぞ。
ベースとギター1とギター2が同じようなことを弾く(コード・ルートをなぞって音の壁をつくる)アレンジはあまりよくない……と筆者の知り合いのベテランプロミュージシャン(嘘松ではなく実在する人物です)も言っていたので、たぶん間違いではないはず。
「楽器の役割分離」をするだけで曲のアレンジはひとまず70点のクオリティにはなると思う。
コード弾き主体のプレイヤーになってしまうと
・コード弾き以外の引き出しが乏しくなるし、
・曲が稚拙なアレンジに聞こえる(=下手クソに思われる)
ので、よくないですよ。
とまあこんな極端で乱暴なことを言ってしまうとART-SCHOOLやらASIAN KUNG-FU GENERATIONやらを否定してしまうことになってしまうわけだが「とりあえずコード弾きしといたろ」みたいな甘えの文化がギタリストのスキル停滞とアレンジの稚拙化に一役買っている感は否めない。
「ギターボーカルはバッキングでコード弾き」みたいな固定観念もよくない。
コード弾きはひとつの奏法・手段でしかなく、乱用していいものではないと思う。
アウトロ
というわけで、ギタリストに下手クソが多い理由を非常に主観的な持論で書いてみた。
また賛否はあると思うが、好きにしてください。
最後に筆者が理想的だと思うアレンジの曲をひとつだけ貼っておきます。
合わせて読もう!
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グラフィックによってゲームの優劣は決まらない。
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ウルトラサン・ウルトラムーン
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1.なぜか物語も佳境という位置に設置されている「キョダイマックスの説明が書かれたお得な掲示板」
— 診療所坂アヤスミ (@o_ayasumi_r) 2021年11月25日
2.ローズが大事件を起こし大会が中断されるにも関わらず、会場や街の様子が一切変わらない。
— 診療所坂アヤスミ (@o_ayasumi_r) 2021年11月25日
3.街で釣りをしたのに道路のバトル背景になる。
— 診療所坂アヤスミ (@o_ayasumi_r) 2021年11月25日
主人公が梯子を乗り降りするときに周りの世界が硬直したり、キャンプでポケモンと触れ合うときのモーションがバトルモーションの流用で殴りがかってくるようにしか見えなかったり。
ダイパリメイクが失敗した理由
「子供だまし」で終わってはいけない
鬼頭莫宏『ぼくらの』再考

当記事には『ぼくらの』の軽いネタバレが含まれるため、作品を未読で、なんの情報もなくまっさらな気持ちで読みたいという方は読むのをおひかえください。
いまさら『ぼくらの』って、なんでやねん。
と思った人も多いかもしれない。
筆者もそう思う。
この記事の執筆の動機としては、単純に筆者が「『ぼくらの』って作品、あらためてめっちゃいいよな。書いてみるか」と気が向いたから、だけである。
まあちょっと前に漫画の完全版も出たわけですし(って、もう去年の話なのか……)。
さて、この『ぼくらの』という作品は具体的になにがどうよいのか、つらつらと語っていこうと思う。
『ぼくらの』とは
『ぼくらの』は小学館の青年誌『IKKI』で連載されていた、えーと、SF?漫画である。
2007年にアニメ化もした(は? あの時に生まれた子供が今中学2年生ってこと?)。
インターネット老人会のみなさんは「オオオエエアアエエ」という印象的すぎるコーラスではじまる主題歌『アンインストール』を一度は聞いたことがあるだろう。
これ主題歌云々とか抜きにしてめっちゃいい歌詞でめっちゃいいメロディでめっちゃいいアレンジなんよ。
作品のあらすじは……まあこの記事にたどり着いて読んでいる人は『ぼくらの』はすでに漫画かアニメで履修済みかと思うが……一応Wikipediaから引用。
夏休みに自然学校に参加した少年少女15人は、海岸沿いの洞窟でココペリと名乗る謎の男に出会う。子供たちは「自分の作ったゲームをしないか」とココペリに誘われる。
ゲームの内容は、「子供たちが無敵の巨大ロボットを操縦し、地球を襲う巨大な敵を倒して地球を守る」というもの。兄のウシロに止められたカナを除く14人は、ただのコンピュータゲームだと思い、ココペリと契約を結ぶ。
その晩、黒い巨大なロボットと敵が出現する。ロボットの中のコックピットに転送された子供たち15人の前には、ココペリと、コエムシと名乗る口の悪いマスコットが待っていた。これが黒いロボット・ジアースの最初の戦いであった。
戦闘を重ねるにつれ、子供たちはゲームの真の意味を目の当たりにすることになる。
読んだことがない人はこちらのリンクから一話無料で読めるのでどうぞ(めっちゃ読みにくい仕様だけど)。
さて、この『ぼくらの』という作品、漫画とアニメでかなり印象の違う作品となっていることはご存知だろうか。
「そんなの知ってるよ。アニメは漫画の連載が終わっていない段階で制作されたから、展開が違うんだろ」
とおっしゃる方もいるかもしれない。
いや、それは間違いないのだが、筆者が言いたいのはそこではない。
作品の風味がけっこう異なるのだ。
漫画・ゲーム・小説のアニメ化には3種類ある(と便宜上定義します)。
・原作に忠実なアニメ化
・原作の再現はそもそも考えられていない、オリジナリティあふれるアニメ化
・原作から大きく逸れてはいないが細かい改変が多く、結果原作とは微妙に異なる風味となった作品
昔はアグレッシヴなアニメ化も多かったが、近年だと原作に忠実なアニメ化が多い印象である(なお筆者は『魔法少女まどかマギカ』あたりでアニメの視聴を熱心にしなくなったのでマジで「印象」だけでしゃべっています。本当にすみません)。
まあ「原作に忠実なアニメ化」は無難ではあるし、評価されるしな。
さて、『ぼくらの』のアニメだが、これは3つめの「原作から大きく逸れてはいないが細かい改変が多く、結果原作とは微妙に異なる風味となった作品」にあたる。
概ねは、漫画と同じである。
ただ細かい部分にかなり改変が多い。
そしてそれがうまく作用していない。
これは監督を務めた森田宏幸がある種の「思想」をもってかなり手を加えたからにほかならない。
森田は 自身のブログで放映期間中に以下のように語っている。
「私自身が原作を嫌いで、アニメーション化にあたり、ある意味原作に悪意を持った改変を加えていることを認めます。」
「原作で嫌いなところのひとつは、子供たちの死に行く運命を作者が肯定してしまっているかのように感じられる点です」
「アニメーション版「ぼくらの」の監督は原作が嫌いです。今後、原作にある魅力がアニメーション版で展開されることは期待できません。だから、原作ファンの方々は、今後アニメーション版を見ないでください」
「ナカマ篇など、大幅な改変によって、原作をはっきりと否定していること、ここに明言しておきます」
あたりまえだが物議を醸しに醸した。
この言葉の通り、アニメ版は監督である森田宏幸の「思想」の介入が著しいのである。
改変点について詳しくは割愛するが、「まわりの大人たちや、主人公の子供たちを取り巻く社会の描き方を変え」た点は特に残念だったと思う。
とりあえずこれだけは最初に言っておきたいのだが、『ぼくらの』は圧倒的に漫画のほうがおもしろく、味わい深いということを明言しておく。
終盤のアニメオリジナル展開はそこまで悪いものではない。
あと主題歌はめっちゃいい。
ただ、アニメ版は原作のいい部分を削ぎ落としてしまいすぎている。
そのため、これから語ることはすべて漫画版準拠だということをご留意いただきたい。
ここがいいよ『ぼくらの』
さて、長過ぎる前置きはこのへんにして。
『ぼくらの』の魅力とはなんぞや。
リアリティのある世界と、異質なジアース
ジアースというのは主人公たちが繰るロボット?の名称である。
ジアースが特徴的なのはその「超常さ」だ。
たとえばエヴァンゲリオンなんかはわりとリアリティがあって、その管理や維持費が至極面倒なことを作中でくりかえしくりかえし描写される(それが『エヴァンゲリオン』という作品の魅力とも言える)。
対してジアースは、とにかく超常的な存在である。
異世界から降ってきたかのようにある日突然現れた機体。
操作に物理的なコントローラーは必要はなくパイロットの意思と自動連動。
地球上の兵器はまったく効かず、核兵器ですらその装甲に傷をつけることは一切できない。素材も未知。
「敵」の攻撃で損傷が出ても次の戦いにまで完全修復する。
戦闘時のみ姿を現し終了後にはどこかに消える。
いわゆる「科学」では説明のできない、まさに「神の産物」とも言えるロボットである。
『ぼくらの』は基本的に登場人物や世界の人たちの考え方がリアルだ。
大胆な歴史改変がされた世界(後述)ではあるものの、ファンタジーではない。
そこにポンと超常的存在のロボットが放りこまれ、人類はいきなり「敵」と戦うことを強いられる。
「敵」には「日本政府」が「リアルな考え」を持って、対応していく。
『シン・ゴジラ』だ。
完全に『シン・ゴジラ』とノリが一緒なのだ。
『シン・ゴジラ』ではリアリティのある世界で、リアリティのない怪獣に政府が科学をもって挑む様が描かれた。
『シン・ゴジラ』はそのチグハグさがおもしろいと評価されたが、『ぼくらの』にも同様の評価の仕方ができると言えよう。
鬼頭莫宏はエヴァ破に使徒デザインで関わっているし、当然著作を読んでいるであろう庵野秀明が影響を受けた……ってことはまあないだろうな。
『ぼくらの』以前にこういう作品ってあったかな。
だれかおしえてください。
淡々として救いのない展開
鬼頭莫宏といえば「登場人物がぐちゃぐちゃ死ぬ漫画を描いている人」という印象をもっている人も多いかもしれない。
どっこい、実際に人間がバンバン死ぬのは『なるたる』と『ぼくらの』だけである。
とは言ってもこの二作が代表作なのでこういったイメージになるのはしかたがないかもしれない。
余談だが、筆者は鬼頭莫宏作のほのぼの日常系自転車漫画(ガチです)の『のりりん』を読んでいるときは「いつかこのヒロインも事故に遭って、脚を切断することになって、『すまんち……もう自転車乗れなくなってしまったけん』なんて言い出すんだろうな、きっと」などと考えていた。
この漫画、とにかくまあ一切の慈悲がない。
人は死ぬし、助からない。
淡々と死ぬ。
死に際は美しかったり、醜かったり、どちらともとれなかったりする。
その描写には「死が肯定されている」感じは一切しないけどな、と筆者は思う。
本当の意味で「勧善懲悪ではない」
「単純な勧善懲悪モノではない点がいいよね」と評価される作品でも、どうしても主人公の敵サイドはある程度悪役っぽく描かれる。
『ゴールデンカムイ』の鶴見中尉だって、わりと悪役のフォーマットにのっとって描かれているでしょう。
その点『ぼくらの』はガチのマジで完全な「非・勧善懲悪」である。
あんまり説明するとネタバレになるので一応避けておく。
緻密な"人間"描写
パイロットである少年少女15人がどういった人間なのか、どういった環境に身をおいているのか、どういった気持ちで戦いに臨むのか、克明に掘り下げる、掘り下げまくる。
パイロットに限らず、周辺の大人たちの心情なども掘り下げまくる。
『ぼくらの』はあらすじだけ見るとよくあるSFロボットものだが、バトル漫画ではない。
というか、戦闘にまったく重きが置かれない。
ちょっとしたネタバレになるが、戦闘シーンがまるまるカットされる回なんかもある(かなりしびれた)。
なんなら戦わずして勝利する回もある(かなりしびれた)。
『ぼくらの』はSF、ロボットモノをフォーマットに使用しただけの人間ドラマなのだ、と言っても過言ではないだろう。
『ぼくらの』という作品におけるスパイス
……と、ここまで挙げた点のみで作品が構築されていた場合、『ぼくらの』は「良作」止まりだったかもしれない。
『ぼくらの』を「奇形の傑作」たらしめている点、それは大筋とは関係のない、凝られた世界観設定である。
アニメ版の残念なポイントは、この描写を削ぎ落としたことだ。
よって筆者としては、アニメ版は原作を差し置いてまであえて観る価値のあるものではないと思う。
まあわかりやすさを追求したのかもしれないが。
さて、以下にどんな「スパイス」が盛り込まれているのか紹介していく。
日乃レポート
『ぼくらの』は2036年くらいの近未来の日本が舞台である。
正直、これは必須の要素ではない。
別に現代を舞台にしたって問題はなかったはずだ。
しかしこの近未来設定が作品にいい味わいを与えているのである。
そしてこれ、ただの近未来日本ではない。
クーデターによって現実の政府機構とはまったく違う姿に変貌した日本、が舞台なのである。
『ぼくらの』は実は「歴史改変モノ」の側面も持っているのだ。
『ぼくらの』の世界は20世紀までは現実世界とほとんど同じ歴史を辿ったのだが、21世紀初頭に「日乃レポート」が実行されたことによって大きく道を変えた。
ひ、ひのれぽーと?
読者にすら「それなんだっけ?」と思った方もいると思う。
説明しよう、「日乃レポート」とはーー
本編より25年前に実行されたクーデター計画である。
鬼頭莫宏の旧作『なるたる』にも極秘計画として登場する。
出版社を超えての設定共有である。
『なるたる』ではあくまでも構想が紹介される程度のものだったが、『ぼくらの』ではそれが実行された世界の話となっている(リアルタイムで読んだファンは感動しただろうな)。
日乃レポートを実行したのは、政府と自衛隊の一部。
このクーデターが成功すると、日本は日米安保条約を破棄し、在日・極東米軍と交戦し、アメリカを追い出し、属国状態を脱却して自立。
あと改憲して自衛隊が国防軍へと発展的解消。
そんでもって外交では親・中国の路線をとり、中国との間に日中安保条約が結ばれる。
アメリカは完全に敵国。
つまり世界は緊張していて、かなりキナくさい状態にあるのだ。
そこで日本政府はジアースの力を軍事的に利用しようとする。
各国もジアースの存在によって揺さぶられる。
この世界観設定があることで、『ぼくらの』は「ただ、少年少女が戦って世界を救うだけの話」に収まらないのである。
天津条約
「天津条約」とは、『ぼくらの』世界において中国の天津で締結された国際条約である。
これに批准した国は「無人兵器の所持・運用を規制する」というもの(おそらく全世界の国が批准済み)。
作中に登場する戦闘機などの兵器は(一部を除いて)すべて有人兵器である。
これもまたいい設定なんだワ。
終盤でこの条約が持ち出され、作品の主題とも言える「自らの手で命を奪うことの意義」「命の重さ」が語られるのである。
独自の素粒子論
これも『なるたる』に登場した設定である。
どういったものかと言うと、
・この世は三次元のマトリックス状に配置された、移動しない素粒子で均質に満たされている。
・その素粒子の中を「物質」が移動するのではなく「情報」が移動している。
・「情報」の「位置」を瞬時に書き換えることによってテレポーテーションが可能。
・「情報」は容易に複製ができるが、「魂」だけは複製ができない。
……なに言ってるのかわかりませんよね、すみません。
詳しくは該当の巻を読んでくれ、としか言えない。
これまたジアースの超常的現象を説明する上でかなりの「それっぽさ」を演出している。
ていうかこの素粒子論って本当なんじゃ、みたいなそれっぽさすごいな。
そして「魂」は複製できないってのが、またいい。
最後に
さらっと書いて短く終わろうと思ったら6000字近くになっていた。
『ぼくらの』を読んだことのない人は興味をもっていただけたら、
『ぼくらの』を読んだことのある人は「そうそう、いい作品だったよなあ」としみじみしていただけたら、幸いである。
そしてアニメ版しか観たことがないって人は絶対に漫画版を読んでほしい。
本当に作品の奥行きが違う別物だから。
あとコエムシの印象がガラッと変わるから。
陰鬱なイメージが強いけど、漫画版はむしろ爽快感のほうが強いまであるから。
まあそれと同時にアニメより陰鬱さが強いですが。
『ぼくらの』が嫌いではない監督の手での再アニメ化、待ってます。
『なるたる』の再アニメ化も、待ってます。
どっちも最近完全版出たし、再ブレイクするとは思うんだけどなあ……と思ったけど『シャーマンキング』も『封神演義』も奮ってませんね。
そして鬼頭莫宏先生が回復され『双子の帝國』が復活しますよう……。
吹奏楽の編曲作品について考える
邦人オリジナル作品があふれる現代から考えると信じられない話だ。
※これは吹奏楽に限ったことではなく、『展覧会の絵』『クープランの墓』など、ピアノ曲から管弦楽編成への編曲が行われている例は古くからある。
※めずらしいところでは、シンセサイザーと打楽器を用いたバレエ音楽である三善晃の『竹取物語』が天野正道によって吹奏楽編曲されている。ちなみに原曲よりはるかに演奏機会が多い。
吹奏楽という編成であらたな響きを与えられており、芸術的な意義や意味も見いだすことができる……かなとは筆者は思うが、ここは意見のわかれるところか。
吹奏楽は"基本的に"管弦楽に勝てない
音楽のことやら小説のことやら映画のことやら自転車のことやら雑多に書いているこのブログで、一番アクセス数の高い記事はこれである。
やはりタイトルがセンセーショナルだからだろうか。
憤慨しながらアクセスした人も多いに違いない。
そしてこの記事タイトルも相変わらずのノリである。
当記事は『吹奏楽部は、教育に悪い』の続編となっている。
そろそろ「おめぇ、吹奏楽に親でも殺されたんか?」という声も聞こえてきそうだ。
しかしそれだけ筆者は日本の吹奏楽や吹奏楽部にまつわるあれこれがどうにかならんものかと思っている。
今回は管弦楽と比較しながら、吹奏楽という編成の機能について話をしようと思う。
目次
吹奏楽民は視野も知見も狭い
さて、吹奏楽が好きなみなさん。
あなたたちは、吹奏楽のどこが好きなのか、説明できるだろうか。
おそらく「どこが」好きなのか「具体的に」かつ即座に説明できる人はほとんどいないと思う。
回答できる人も「みんなでひとつものをつくりあげるやりがい」だとか「部活が楽しい」などで、吹奏楽という形態のもつ音楽的な魅力については言及できない人がほとんどだと思う。
言い切ってしまうが、「吹奏楽が好き」と言う人の大多数は、学生時代の思い出による補正でしかない。
まあ、それでもいい。
それでもいいのかもしれないが、
少しは「学生時代の部活での思い出と、その延長」としての吹奏楽ではなく、「音楽」「芸術」として吹奏楽のことを考えてみないか?
この記事、「管弦楽と吹奏楽の違いなんて気にしたことないけど、部活の思い出補正で吹奏楽が好き」という吹奏楽好きにはもちろん、「やっぱ管弦楽が至高でしょ。吹奏楽とか下位互換に過ぎない」と思っている管弦楽好きにも読んでいただきたい。
『風紋』をふたつの編成で聴き比べてみる
吹奏楽は"基本的"に管弦楽に勝てないというタイトルに、吹奏楽ファンの方は憤慨しているかもしれない。
怒る前にまず、冷静に考えてほしい。もしも管弦楽より吹奏楽が優れているのであれば、大河ドラマのテーマ曲は吹奏楽編成だっていいはずだ。
しかしみなさん知っての通り、大河ドラマのテーマ曲は必ず管弦楽編成で書かれ、NHK交響楽団が演奏する。
映画やゲームの劇伴だってだいたいが管弦楽だ。
わざわざ吹奏楽編成を意識してつくられる曲もないことはないが希少だろう。
理由は簡単で、吹奏楽が管弦楽と「同じこと」をやっても勝てないからである。
同じことをやっても、最大限がんばっても、下位互換にしかならない。
ここで往年の吹奏楽ファンなら知らない人はいないであろう『風紋』を聴いていただきたい。
これ、保科洋氏自らが書いた管弦楽版があるのを知っているだろうか。
吹奏楽版
管弦楽版
どちらがいいだろう。
圧倒的に管弦楽版じゃないか?
本当に吹奏楽版が優れているのであれば、保科氏も後からわざわざ管弦楽版なんて書かなかったのではないだろうか。
それは言い過ぎか? それでも『風紋』がわざわざ管弦楽版にトランスクリプションされたのは、「吹奏楽ならでは」の楽曲になりきれていなかったからだと筆者は思う。
※これは保科氏が吹奏楽向けの曲を書き切れていないという批判ではない。『風紋』は全日本吹奏楽連盟の委嘱で吹奏楽コンクール課題曲として作曲されたものであり、中高生も演奏することを考えるとある程度平易かつ親しみやすいメロディである必要があった。
いや『風紋』は吹奏楽版のほうがいいだろ、という人も、まあ最後まで読んでいってほしい。
なぜ吹奏楽は"基本的"に管弦楽に勝てないのか。
吹奏楽が管弦楽に『負けている』点は、ヴァイオリン属(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)という強大な存在を欠いていることである。
吹奏楽にはコントラバス――非常に稀にチェロが参加することもあるが――をのぞき、弦楽器が存在しない。
ではヴァイオリン属の有無でなにがそこまで変わってくるのか。
①表現力
あたりまえだが楽器の種類が多ければ多いほど、楽曲の表現力、楽団としての表現力は高まる。
管弦楽はクラリネットやトランペットやフルートといった管楽器群も擁する。
つまり、吹奏楽で出せる音は、管弦楽でも出せるのである。
「吹奏楽にはサックスとユーフォニアムというアイデンティティがある!」と言う方もいるかもしれないが、それだけでヴァイオリン属の圧倒的な音色と表現力を凌駕するほどの力はあるだろうか。
それに、管弦楽でも近現代曲ではサックスやユーフォニアムが組みこまれることだってある。
もちろん楽器の種類が多ければ多いほど優れた音楽になるわけではない。
少人数編成の室内楽は、それはそれとして素敵な形態であるわけだし。
ただ、大規模な器楽合奏体として比較すると、管弦楽に軍配が上がるのはたしかだろう。
②倍音
ヴァイオリン属の倍音は、管楽器のそれとは明らかに違う。
弦楽器の倍音は芳醇で荘厳な印象を与えてくれる。
ちなみに吹奏楽において、芳醇な響きのサウンドを奏でるバンドを「まるでオーケストラ(管弦楽)のようなサウンド」と誉めたりするが、この言葉がある時点で……という感じもする。
③高音域の問題
ヴァイオリンが奏でる高音域をカバーできるのは、管楽器ではピッコロくらいのものである。
これはかなり手痛く、吹奏楽最大の弱点ではないかと思う。
管弦楽おける主役はヴァイオリン。
対して吹奏楽ではクラリネット(ソプラノクラリネット)が主役の役割をもつ。
クラリネットはそこそこに音域が広く、音色の汎用性が高いため、吹奏楽では主旋律からハーモニーまで担う、管弦楽におけるヴァイオリンのような楽器である。
そんなクラリネットが得意な音域はヴィオラに近い。
ヴァイオリンほど高音域を出すことには向いていないのだ。
向いていないというだけで出ることは出るが、あくまでも飛び道具的に使われるもの。
主旋律もハーモニーも担う、一番人口の多い主役級の楽器が、高音域を出せないのだ。
「でもソプラニーノクラリネットがあるじゃん」「ピッコロで高音域もまかなえるじゃん」と思ったあなた、ソプラニーノクラリネットとピッコロという楽器が持つ音色の強すぎるパワーを考えてみてほしい。
吹奏楽においても専門の奏者が常設されていない。
言い方は悪いが、どちらも飛び道具的に使用される楽器だ。
吹奏楽は特に高音域の弱奏に向かない。
高音域の弱奏ができるのはフルートくらいのもの。
ヴァイオリンは繊細な操作が可能であるため高音域の弱奏も可能である。しかも大群で。
吹奏楽という編成の機能
では吹奏楽のアイデンティティとはなにか。
それはサックス群やユーフォニアムの存在ではない。
管弦楽にはない吹奏楽のアイデンティティは、ある種の「いなたさ」「下品さ」であると思う。
……怒られるか?
ここで先ほどの『風紋』を例にとればわかると思う。
圧倒的に管弦楽版のほうが芳醇で豊かで上品な演奏ではないだろうか。
吹奏楽版は、どうしてもいなたい印象がぬぐえない。
逆に、吹奏楽はここにこだわるべきではないかと思っている。
この「いなたさ」を活かしてこそだと思う。
では、なぜ吹奏楽はいなたくなるのか。
ヴァイオリン属という上品な音色の楽器が存在しないから……でもあるのだが(これは大いにあるのだが)、理由はほかにもいくつかある。
アインザッツやリリースへのこだわりの強さである。
吹奏楽はとにかくアインザッツ(発音の出だし)をそろえることにこだわる。
そしてリリース(音の終わり)もきっちりそろえることを求められる。
もちろん管弦楽だってそうなのだが、吹奏楽ではそれが顕著に浮かび上がる。
管楽器という楽器の特性上、アタック感が非常に強いからだ。
アインザッツとリリースがそろわないとどうしてもバラけた印象になる。
対して弓で撥弦する弦楽器はやさしいアタックになる。リリースもそう。
ぬるっと入り、ぬるっと終わるのである(もちろん一概に毎度そうなっているわけではないのだが、比較しての話)。
吹奏楽はこのアタック感をフルに活かすべきなのではないだろうか。
「勇猛なサウンド」
「攻撃的なサウンド」
「重厚なサウンド」
をつくる点においては、管弦楽より吹奏楽に分があると筆者は思う。
先ほど吹奏楽の弱点として高音域の不足を挙げたが、逆に管弦楽より管楽器奏者が多い分、中低音域が非常に充実していると言える(管楽器の多くは中音域が得意)。
また、管楽器のみの演奏体である吹奏楽は(弦楽器に遠慮しなくていいので)爆音を出しやすい。
ここで言う「爆音」は「迫力のある大きい音」のことを指す。
※もちろん音量が大きければ大きいほどいいというわけではない。昨今の吹奏楽コンクールにおける爆音信仰は見直されるべきだと思う。
この爆音によって、管弦楽より「勇猛なサウンド」「攻撃的なサウンド」「重厚なサウンド」がつくりやすいのはたしかである。
吹奏楽はこのサウンドの特徴をフルに活かしていくべきではないか。
管弦楽がお上品路線を得意とするのならば、吹奏楽はこのいなたさ、ともすれば下品とも言われるような表現で勝負するべきではないか。
普遍的な調性音楽の曲であれば管弦楽でやればいい。吹奏楽である絶対的必要性はない。
単純に「綺麗な旋律」であれば、ヴァイオリンが一番映える。
と筆者は思う。
しつこいようだが『風紋』をもう一度聴いてほしい。
テーマの旋律など、ヴァイオリンの圧勝だろう。
つけ麺は、もとはラーメンから派生した食べ物である。
最初は余った麺をスープにつけて食べられていたまかないだったものが商品化され、麺を冷やして締めたり、汁の濃度を強めたり、太麺が基本になるなど、ラーメンとは異なる道へ独自に発展した。
吹奏楽もそう(?)。
管弦楽から生まれてひとつのジャンルとなった今、独自の発展をするべきなのである。
※正確には軍楽隊がルーツではあるが、今日の発展した大規模器楽合奏体としては管弦楽からの影響が強いだろう。
巷では単にスープと麺を分離させただけのものをつけ麺と言い張って出す店もあるが、それはもはや「こんなんラーメンで食った方が美味いじゃん」である。
吹奏楽もそう(?)。
「この曲・この表現だったら管弦楽の方が効果的じゃん」と言わせてはいけない。
吹奏楽は吹奏楽という編成の機能を活かすべきで、「弦抜きオケ」であってはならないのだ。
吹奏楽は、管弦楽とは在り方を明確に差別化するべきなのである。
そして、それを作曲家、指揮者、指導者はもちろん、奏者と聴衆もそれを意識するべきなのである。
こと日本においては、それがほとんど意識されていないと言っても過言ではない。
吹奏楽が得意とする分野の考察
「吹奏楽は管弦楽と差別化を図り、吹奏楽という編成の機能をふんだんに活かすべきである」と述べたが、ではそれを体現できる曲はどういったものか、具体的に述べたい。
①マーチ、ファンファーレ
マーチやファンファーレはやはり重厚な金管楽器群がある吹奏楽がとても機能する。
もちろんコンサートマーチであれば管弦楽でやれないことはない。『星条旗よ永遠なれ』は管弦楽版が存在する。
②民族的・土俗的な音楽
たとえば和風の曲は、吹奏楽のいなたい感じはマッチすると思う。
管弦楽でも昔から和風な曲は存在するが、よりいなたい感じを表現したい場合は吹奏楽に分があるだろう。
大栗裕の『大阪俗謡による幻想曲』や『神話』は管弦楽版と吹奏楽版がそれぞれ存在するが、個人的にはよりねっとりした表現のできる吹奏楽版の方が好きである。管弦楽版もそれはそれでおもしろいオーケストレーションなので聴いたことのない人は聴いてみてほしい。
③ジャズ、ラテン音楽
上記映像は故・真島俊夫氏のオリジナル楽曲。
黒人音楽やラテン音楽調の曲、ビッグバンドやジャズバンドからのアレンジなどはやはり吹奏楽がマッチするだろう。
ただ念を押して言いたいのは「管弦楽はポップスに向かない」という言説は誤りだということだ。
『ウエストサイドストーリー』だってオリジナルは管弦楽(に豊富なサックス群を加えた)編成である。
「吹奏楽はどんなジャンルにも柔軟に対応し、管弦楽はそういった小回りが利かない」
「ポップスが演奏できるのは吹奏楽の利点。管弦楽ではこれができない」
と言われたりするが、それは日本だけの風潮である。実際、海外にはポップス・オーケストラが存在するわけだし。
④現代音楽
ここで言う現代音楽は無調で変拍子が多用される実験的な楽曲、「狭義の現代音楽」を指す。
ピンとこない吹奏楽民は「課題曲Vみたいな曲」だと思えばいい。
先ほど吹奏楽は「強いアタック感」で「攻撃的なサウンド」が形成できるという話をしたが、刺激的な現代音楽は非常にマッチすると思う。中低音に厚みがある点も混沌さを演出する一助になるだろう。
具体的にこれを実践している作家として田村文生を挙げたい。
巷にある多くの吹奏楽曲は「この曲、ヴァイオリンで旋律を奏でているのが想像つくな」と思えてしまう。
みなさんも実際に適当な吹奏楽曲を選んで頭の中でその曲を管弦楽編成で鳴らせるか想像してみてほしい。だいたいできると思う。
しかし例に挙げた田村文生の作品は、管弦楽編成にトランスクリプションされるのは想像ができない。
真の意味で「吹奏楽という編成をフルに活かし、管弦楽では再現できない」ことをやっていると思う。
余談だが、吹奏楽分野の現代音楽曲はもっと評価がされてもいいのでは、と思う。
残念ながら、一般的な管弦楽マニアは吹奏楽など眼中にない。
現代音楽という分野はそれなりに愛好家が多いのだが、どうしても彼らは管弦楽以外に食指を伸ばさない印象だ。
重厚で攻撃的なサウンドで奏でられる混沌とした現代音楽の演奏機会が増え、それをたくさんの人が認識すれば、吹奏楽の芸術的評価が向上するのではないかと思っている。
管弦楽の現代音楽分野で著名な新垣隆、西村朗、三善晃あたりが入り口にならないものだろうか。
彼らが吹奏楽編成に向けて書いた曲は、どれもメインフィールドである管弦楽とは意識的に差別化された「吹奏楽ならでは」のサウンドが構築されているので、管弦楽マニアの人もぜひ聴いてみてほしいものだ。
吹奏楽市場という呪縛
筆者は高度な音楽教育を受けてもいないし、音楽でなにかしらの成功を収めているわけではない。
そんな人間がこんなことを言うのは非常に不躾で無礼かもしれないのだが、「吹奏楽ならでは」を念頭に置かれて作られた曲は、こと邦人作品においては少ないと思う。
具体的に名前を挙げてしまうが、長生淳氏の曲などは管弦楽編成のほうがいいのではと思えてしまう。非常に邪推だがこれについてはご本人も自覚があるのではなかろうか。
ではなぜ「これべつに管弦楽でもいいんじゃね」と思われるような吹奏楽曲が氾濫しているのか。
なぜ「管弦楽ともっと差別化しよう」という動きが見られないのか。
これは日本における吹奏楽の市場の問題であると思われる。
①団体数
まず大前提として、日本において管弦楽部を持つ中学校、高等学校はかなり少ない。
これは管楽器のほうが弦楽器より安価かつ、演奏技術を習得しやすいことに起因している。
あらゆる面で管弦楽は難しく、吹奏楽は簡単という話だ。
管弦楽部は関東近郊ではそれなりに盛んで設置している高校も多いが、全国的に見るとかなりマイナーである。
地方の吹奏楽民は「管弦楽部が設置されている学校がある」ということを知らないだろう。実際筆者も知らなかったし、存在を知ったときは驚いた。
吹奏楽部は規模の大小はあれど、全国どの中学、高校、大学にも必ずといっていいほど存在するし(大学になると地方でも管弦楽部もわりと多いが)、小学校でも設置されていることが多い(小学校においては金管楽器と打楽器のみの編成が多く見られる)。
また部活動に限らず、吹奏楽は市民団体の数も管弦楽より多い。
長々と書いたが、単純に管弦楽より吹奏楽のほうが人口が多いということだ。
作曲家というのは自身の曲が演奏されてナンボである。
楽譜が売れなければメシが食えない。
であれば、管弦楽より演奏される機会の多い吹奏楽をメインフィールドとすることは当然の帰結と言える。
日本においては管弦楽より吹奏楽の方が盛んであり、作曲家としては吹奏楽編成の曲を書いた方がより演奏機会に恵まれるというわけである。
②コンクール
全日本吹奏楽コンクールの存在は、強力な市場をつくりあげている一因として無視することができない。
中学校、高等学校、大学、職場・一般の4つの部門を合わせると、全国で10000団体以上が参加するという巨大なイベントである。
管弦楽においては、これほどまでに大規模なコンクールは存在しない。
吹奏楽コンクールは、競技的な――ここでは揶揄の意味もこめて「競技的」という言葉を使用する――側面のほか、コンクールで演奏する曲を作曲家に委嘱する学校・市民団体もあり、作曲家の新曲発表会の側面がある。
委嘱曲はだいたい翌年には楽譜会社より出版され、みなこぞってそれを演奏したがる。
全国大会で初演された曲が翌年以降に流行するということもめずらしくはない。
作曲家にとって、吹奏楽コンクールというのは美味しいイベントのひとつなのだ。
言い方は下品になったが、筆者はそれを否定するつもりはない。
吹奏楽コンクールという媒体によって曲の知名度が広まるのはよろこばしいことと言えるわけで。
以上の要素から導き出されること
前提:日本における吹奏楽の人口は管弦楽に比べてはるかに多い。
そのため:作曲家にとって作品が演奏される機会は吹奏楽のほうが多い。
それでいて:吹奏楽は日本において部活動のツールとしての側面のみ異常に発達しており、音楽的・芸術的な面はないがしろにされがち(管弦楽好きにはその面しか着目されておらず、吹奏楽が見下される要因のひとつにもなっている)。
そのため:「部活動としての吹奏楽」にしか関心のない人間しか育たない(リテラシーの不足)。
つまり:学生と、その延長でやっているライトユーザーが大半を占める日本の吹奏楽市場では、どうしても「メロディアスでドラマチックでわかりやすい調性音楽」の需要が高くなる。
→こういった流れで、日本では「これべつに管弦楽でもいんじゃね」という曲が氾濫してしまうのではないか。
……あくまでも筆者の推察による持論なのであしからず。
近からず遠からずであるような気はしているが。
またこれは邦人作曲家への批判ではない。
あくまでも彼らは市場の需要に応えているだけである。
その点、海外は吹奏楽という編成のアイデンティティがフルに活かされている曲がとても多いように思う。
これは日本と比べて管弦楽がより活発だから、差別化について意識的であり貪欲であるということの証左ではなかろうか。
ギリングハム、アッペルモント、ジョージ、マッキーなどなど、調性音楽であっても、しっかり「吹奏楽ならでは」という響きだ。
彼らの曲だって管弦楽へのトランスクリプションができないこともないだろうが、吹奏楽ならではの厚みや攻撃性を活かしているように思える。
日本では高昌師なども挙げられるだろうか。
※2022/9/1追記
高昌師はもともと「現代音楽」の項で田村文生とともに挙げていたがこちらに移動したことを記録しておく。
貼りつけている『マインドスケープ』については現代音楽的な要素はあるが全編そうかと言われるとそうでもないからである。それは初稿の段階で思っていたがまあいいかと置いておいてしまった筆者の至らなさである。『エッセイ』なんかはわりと全編現代音楽チックなのだが権利的に問題なさそうな動画がYouTubeにはなかった。
ただ『マインドスケープ』はファンファーレ的なアプローチが多用されているし、ラストなんかは吹奏楽特有の厚みならではの響きだと思うし、それ(吹奏楽特有の楽曲ではないか、ということ)については考えを変えてはいない。
黙って取っ払うのも不誠実だしこちらで残しておくことにした。
最後に
筆者は先ほど述べた「ライトユーザー」を否定するつもりはまったくない。
吹奏楽をやる人間が全員高い技術と意識を持つべきとは言わない。
スポーツや格闘ゲームと同じように、エンジョイ勢がいたっていい。と言うよりはエンジョイ勢が多い方に越したことはない(本気でやっている人間やガチのオタクしかいない界隈は廃れてしまう)。
「混沌とした現代音楽」「ファンファーレ的なアプローチが多用される楽曲」「攻撃的な、ともすれば下品に聞こえる音楽」にシフトしていくべき、というのが恣意的な意見であることは自覚している。
現在の日本の吹奏楽市場を考えると現代音楽をメインストリームとするのは現実的ではない。
それに筆者は「管弦楽に簡単にトランスクリプションできるような吹奏楽曲は駄作だから絶滅しろ」と主張するつもりはない。
初心者の入口として平易な曲は存在しなければならないわけだし。
コンサートのプログラムとしてもそういった曲は必要なわけだし。
ただ、少しでも「吹奏楽のアイデンティティを意識する人」が増えてほしいと思う。
「吹奏楽が好き!」と言うのであれば、部活の思い出を語るのではなく、音楽的な要素を語ることのできる人間が少しでも多く増えてほしい。
少しでも多くの吹奏楽民が「吹奏楽という編成のアイデンティティ」を意識するだけで、日本で作曲される・演奏される楽曲の在り方も変わってくるかもしれない。
筆者は管弦楽マニアに対しても、吹奏楽の編成としての魅力は存分にあるのだということを知ってほしいと思っている。
それを知ってもらうにはまず、吹奏楽民のリテラシー向上からだ。
【了】
合わせて読みたいシリーズ
パーカッションがどういったパートなのかよく知らない人へ ~邦楽ポップスにおけるパーカッション~
パーカッションというパート、みなさまご存知だろうか。
もしかしたらマジで知らない人いるかもしれない。
あるいは知っているけどなにをやっているのかわからないという人が大多数だと思う。
パーカッションを知らない人には知ってもらうため、
ふんわりとしか知らない人にはガッチリと知ってもらうため、
4200字ほどしたためたのでよろしゅう。
- パーカッションとは
- ①くすりをたくさん(大貫妙子)
- ②青い珊瑚礁(松田聖子)
- ③どんなときも(槇原敬之)
- ④PRIDE(今井美樹)
- ⑤渚にまつわるエトセトラ(PUFFY)
- ⑥君はそう決めた(坂本慎太郎)
- ⑦上海an(相対性理論)
- ⑧最後の恋煩い(Official髭男dism)
- いかがだろうか
パーカッションとは

わたくしのセット。
パーカッションとは、コンガ、ボンゴ、タンバリン、シェーカー、ウィンドチャイムなど様々な打楽器を演奏するパートである。場合によってはマリンバやグロッケンなどの鍵盤打楽器やティンパニなども演奏する。
ドラムのリズムを補強したり曲に装飾をつけたりと役割は様々。
で、このパーカッションというパートだが、
「ああ、なんかバックバンドでチャカチャカしてる人ね」くらいの認識の人が大多数だと思う。
バンドといえば「ギター、ベース、ドラム。場合によってキーボード」といった編成を思い浮かべる人がほとんどだろう。
パーカッションが参加しているバンドは、まあ少ない。
ギターやキーボードに比べると起用率は断然少ない。
それこそソロシンガーのバックバンドなどでしか見かけないだろう。
「ロックバンド」の「正式メンバー」としてパーカッションパートが在籍しているバンドはサザンオールスターズくらいではないだろうか(スカパラとかは「ロックバンド」のくくりではないし)。
ぼくもそうだったけど、サザンオールスターズ知ってるのにパーカッションのメンバーがいることを知らない人多いよね。
そしてここ20年はマジのマジで楽曲にパーカッションを取り入れることが減少している、と思う。
ウィンドチャイムが入っていたりタンバリンが入っていたりということはあるが、がっつりコンガを入れる、みたいなアプローチが本当に減った。
ここ最近のロックバンドでパーカッションを本格的に取り入れているのはOfficial髭男dismくらいのものだろう(ソロシンガーならけっこういるがロックバンドで、となるといない。いつの時代でもそうか)。
メジャーの世界でもそんな感じなのだから、これがインディーとなればもうマジで壊滅的に存在しない。
パーカッションを入れているバンドもいないし、パーカッショニストもマジでおらん。
ギター>>>>>>>>>>>>>>>>>ベース>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ドラム>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>キーボード>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>パーカッション
といった具合。
パーカッションには需要がなければ供給もない。
つまりだれも困っていない。
じゃあいっか。
待て。
パーカッション、入れろ。
ギターロックのオルタナバンドとかは、まあいいけど、めっちゃポップなバンドなのにパーカッションが入っていないのは違和感すら覚えますよ。入れろや。
メタルなのにギター入ってないバンドとか、いないでしょ?(見てみたいとは思うが)
単純にみんな「パーカッションを入れよう」という発想に至らないのであるよな。
なぜならみんなシンプルにパーカッションのことをよく知らないから。
ギターやベースやキーボードは自分が弾けなくても、なんとなくどんなアプローチをするのか想像がつくだろう。
しかしパーカッションはまず楽器が多すぎるし、どんな曲にどんなアプローチをしているのかみなさんまったく知らないと思う。
じゃあ知りましょうよってことで、パーカッションが印象的な邦楽曲を年代順に挙げてみる。
個人的なアレなので「なんで●●が入っていないんだ!」みたいなクレームは勘弁してください。ていうかコメント欄でおしえてください。
①くすりをたくさん(大貫妙子)
とても1978年の曲とは思えない。アバンギャルドでキャッチー。
パンは右にティンバレス(前半はカウベルが主体)、左にコンガが振られている。
この曲のパーカッションはマジで音量がデカい。
一般的にパーカッションはミックスで埋もれさせがちだがこの曲は「主役です」と言わんばかりに目立っている。
フレーズもかなり遊んでいるのに邪魔ではないという絶妙なバランス。
この曲が所収されている『SUNSHOWER』は全編にわたって坂本龍一氏が編曲を担当。
演奏陣もその時代の旬の人を集めましたという感じでかなり豪華。
パーカッションは「この人いろんなところに参加しすぎやろ」で有名な巨匠・斎藤ノヴ氏。
ちなみにバックグラウンドボーカルとして山下達郎氏が参加している。
②青い珊瑚礁(松田聖子)
こちらの曲は1980年。40年前の曲なんだ……。
鬼のコンガ。
最初から最後までコンガ。
コンガの課題曲として使ってもいいほどにコンガ。
めちゃくちゃ有名な曲だけどコンガが入っていることはみんな知らなかったのではなかろうか。
かく言うわたくしも最近知った。
トゥンバオを基本にセクションごとにリズムが切り替わるので聴いていてかなり楽しい。
松田聖子にはパーカッションがゴリゴリに入っているので他の曲も聴いてみてほしい。
③どんなときも(槇原敬之)
1991年リリース。
言わずもがなだが槇原敬之氏はこの曲で一躍有名になった。
これイントロがパーカッションアンサンブルからはじまるの知ってました?
知らないよね。だれもが聴いたことのある有名な曲なのにね。
使用しているパーカッションの数がえげつない。登場順に紹介。
・ティンバレス
・ギロ
・クラベス
・タンバリン
・ティンパニ
・コンガ
・カスタネット
多すぎ。ラテン音楽?
パーカッションは前述の斎藤ノヴ氏に並ぶ巨匠の三沢またろう氏。
もう本当にいろんなところで見ますよね。『あつまれどうぶつの森』のメインテーマのパーカッションも三沢氏。
④PRIDE(今井美樹)
1996年リリース。
ワイ将2歳。
トライアングル、カバサ、スレイベル、ツリーチャイムなど金物が主体。後半のティンパニも印象的。
「小型の金物楽器をメインにアレンジするならどうするか?」の解答、のようなアレンジであるといえよう。
パーカッションといえばコンガ、みたいなところあるんだけど、コンガレス(そんな言葉はない)でパーカッションが印象的な曲を挙げろと言われたら真っ先にこれ。
2拍目裏にスレイベルを入れるというセンスがマジでしびれる。
思考停止で4拍目頭に入れがちなわたくし、初めてこの曲を聴いた時にはコペルニクス的転回を起こして失禁した。
⑤渚にまつわるエトセトラ(PUFFY)
1998年リリース。
ワイ将4歳、親父のエロ本を発見して性の目覚めを起こす。
『青い珊瑚礁』と同じくずっとコンガが鳴っている。
ストリングスの感じもそうだけど『青い珊瑚礁』をオマージュしているんじゃないかなと思う。
後半リズムがワワンコになるのが本当にたまらん。
⑥君はそう決めた(坂本慎太郎)
2011年リリース。
急にワープ。マジで2000年代以降はパーカッション冬の時代。
おれが知らないだけか。だれかゼロ年代のおすすめおしえてほしい。
坂本慎太郎といえばコンガ。
坂本慎太郎といえばパーカッション。
イントロでわかっちゃうけどこの曲はコンガが支配している。
坂本慎太郎の曲はドラムがほとんど三点のみで一切クラッシュシンバルを使わない。そのためパーカッションがかなり際立つ。
坂本慎太郎みたいに楽器は多いんだけどそれぞれのパートの分離がハッキリしている音楽、いいよね。
あとサックスソロかっこよすぎるだろ。
⑦上海an(相対性理論)
2013年リリース。
真部脩一氏と西浦謙介氏の脱退後初のアルバム。
この時期の相対性理論はitoken氏が曲によってドラム(ドラマーは別にいるのでツインドラムになる)、パーカッション、キーボードとマルチにプレイしている。
このアルバムはitoken氏の色がかなり濃く出ている。『上海an』は顕著。
itoken氏はあまりラテン系やアフリカ系の膜鳴楽器は使わない印象(この曲ではボンゴ?が一部で登場)。この曲は彼の得意な?カウベルやジャムブロックが活躍しています。
何気にここまで紹介してきた中で素直にタンバリン振っている曲はじめてでは?
⑧最後の恋煩い(Official髭男dism)
2020年リリース。
2010年代はガチで邦楽がクソダメな時期だった、とよく言われている。そしてパーカッション氷河期。
ここ最近少しずつパーカッション流行ってきてる?気がしますがどうでしょう。
髭男バカにしてる自称音楽通マジでセンスないからちゃんと聴いてほしい。
マジでアレンジがよすぎるに尽きる。
キーボードがおしゃれすぎ。ホーンかっこよすぎ。
この手のバンドっていくらでもアイドル売りできるはずなんですよ。
サポートメンバーの存在なんて、一部の、ひょっとすると大多数のファンにとってはノイズになりかねない。
それでも投入するこの心意気よ。
リズムをシェケレで刻んでコンガはソロ的に登場するだけってめずらしいアレンジ。
パーカッションは今をときめく若手パーカッショニスト・ぬましょうこと細沼章吾氏。
いかがだろうか
意識して聴いてみるといろんな曲でいろんなパーカッションが使われているのがわかる。
ぜひみんなもパーカッションに耳を傾けたり、取り入れたりしてほしい。本当におもしろいので。
この記事がみなさんがもっと楽しく音楽を聞けるようになる一助になれたらよいな、と思います。
筆者が影響を受けたものを挙げるだけの記事
こういう自分語り文章を毛嫌いするひともいるし気持ちもわかるのだけれどそもそもブログって自分語りするものだよなということを思い出し、ぼくもまた他人のそういう文章を読むのが嫌いじゃないのでまあ楽しんでくれるひともいるだろうと思い、自分が影響を受けたものをつらつら挙げていこうと思います。つまり自己紹介記事です。
以下に挙げるものでなにか知っているもの・好きなものがあれば他のものにも興味をもっていただけますと幸いです。きっと好きだと思いますので。
……挙がったの全部日本のものだったな。まあぼくは日本人なので日本のものが好きでなにが悪いんだって話ですよ。そのうち海外編でも書くか?
Amazonリンク貼ってますがアフィ登録してないです、ってか審査落ちてます。ははは。
小説
佐藤友哉
ぼくのパーソナリティをつくりあげるファクターの4割くらいはこの作家による諸々のアレと言っても過言ではなく、ぼくが上京したのも定職に就かずにプラプラしているのも日々ルサンチマンを垂れ流しているのもだいたい氏のせい。
高校1年生という多感な時期に『フリッカー式』とかいうトンデモ小説を読んでしまったせいで人生がめちゃくちゃになってしまったため非常に恨んでいる。『1000の小説とバックベアード』は永遠にぼくのバイブルとして君臨しつづけるであろう。
最近は『転生! 太宰治』という小説が話題になった。
浦賀和弘
佐藤友哉と同じメフィスト賞出身の作家。佐藤友哉と同じく多感な時期に読み、ぼくの人生の狂いを決定的なものとした。
その独特で奇抜な作風からセールスはかんばしくなかったが、近年『彼女は存在しない』がジワ売れしたことによって人気作家となる。
これから良質なミステリを量産しつづけていくのだろうと思っていたのだが、今年の2月に脳出血で突然逝ってしまった。安藤直樹シリーズは永遠に未完のままだ。半身を裂かれたような思いである。
村上春樹
「あ、村上春樹ねw」とか言うやつマジで村上春樹を読めていない。『ノルウェイの森』しか読んでいない。
やれやれ、彼の小説が幻想文学でありサイエンス・フィクションでありシュルレアリスムでありスリップストリームであるということを知っている人間はどれだけいるのだろう?
ファンもアンチも表層の「気障で鼻につく感じ」しか掬いとっていないのかもしれない。ハチャトリアンの楽曲で『剣の舞』のみが知られている現象と同じように。
乙一(永田永一、山白朝子)
一番最初に「小説」を読んだのは乙一が一番最初だった。幸運だった。読みやすいエンタメだし。
「なんかみんな読んでるし、乙一好きって公言するの恥ずかしいな」と思っていた時期の自分を殴りたい。
とにかくエンタメ小説として技巧がすごい。システマチック。あと作風のレンジが広すぎる。
『GOTH』を読め。
谷川流
っていうか涼宮ハルヒの憂鬱なんですが。『学校を出よう!』読んでなくてすみません。
筒井康隆御大が「『涼宮ハルヒの憂鬱』はライトノベルである以前に優れたSF作品である」とおっしゃってましたが本当にその通りです。そして優れた青春小説だとも思います。
ぼくがこうなってしまったのはだいたいハルヒのせい。陰キャになってしまったのも収入が低いのもハルヒのせい。非常に恨んでいる。
ぼくより前の世代の人は『ブギーポップは笑わない』や『イリヤの空、UFOの夏』にやられていると思われる。今の中学生ってマジでどんなライトノベルを読むんだ? そういう時代ではないのかもしれないね。
岡田淳
児童文学の作家。ぼくの読書原体験。
「優れた児童文学は大人の鑑賞にも堪えられる。そうでなければ、ただの子供だまし」と大学の先生が言っていた。マジでその通りだと思う。大人になった今読んでも本当におもしろい。
心の薄汚れた大人は『こそあどの森の物語』シリーズを読むとよい。はい、わかりました。
漫画
手塚治虫
手塚しか勝たん。
「漫画の神様」と言われているように漫画史開闢以来マジでだれひとりとして彼を超えられた者はいない。だれがなんと言おうといない。村上春樹の件もそうだけどちゃんと読んだこともないのに適当なこと言うなよお前ら。ていうか手塚治虫読んでないのに漫画好きを名乗るなよ。オルタナ好きなのにニルヴァーナ聴いてないやついないだろ。
『火の鳥』にはこの世界のことすべてが書かれている。『ブラックジャック』は凡百の道徳の教科書に勝る。ぼくはマジであらゆる影響を受けている。
鬼頭莫宏
やたら線の細い少年少女が陰惨なSF世界でぐちゃぐちゃになる話を書いている人。『なるたる』『ぼくらの』はアニメ化して有名になった。両方再アニメ化してくれないかな。
鬱漫画専門のひとかと思いきや意外と日常系も描かれていらっしゃる。『のりりん』を読んだせいで20万円のロードバイクを購入するハメになったので非常に恨んでいる。
氏は現在病気療養中で原作仕事しかしていない。『双子の帝國』の復活待っています。
TAGRO
『変ゼミ』がヒットしてしまったがばかりにすべてを『変ゼミ』にもっていかれた気がする。いや『変ゼミ』はとてもおもしろい漫画ですが。
このひとは作風のレンジがとても広く、SF、ギャグ、時代物、さらには複乳などを取り扱ったマニアックなエロ漫画から「青春の傷み」みたいな短編まで書く。
『マフィアとルアー』と『DON’T TRUST OVER』はバイブル。
ふみふみこ
大学時代に狂ったようにふみふみこを読んでいた時期があった。
やっぱり「青春の痛み」 みたいな漫画が、ぼくはすきです。
映画
園子温
なんかこの流れで園子温挙げると「はい出ましたw」って言われそうだな。単芝生やすなぶっ飛ばすぞ。
混沌が熱量をもって勢いのまま突っ走る映画が、ぼくは好きです。
三木聡
『時効警察』の人。
とてもコミカル。こんな脱力系な映画撮れる人ほかにいるのかしら。あ、大九明子がわりとそうかも。
映画監督が好きで観てるのって園子温と三木聡くらいかもしれない。そしてぼくは映画のことに関しては言葉数が少ない(自信がないから)。
新海誠
『君の名は。』が爆売れした人。
いいから『雲のむこう、約束の場所』を観てほしい。
新海誠については以前12,000字くらい文章を書いたのでくわしくはこちら↓
関連記事:新海誠全作品ふりかえり ~『天気の子』は『君の名は。』の延長にある作品だという話~ - アヤスミ雑記
ゲーム
ゼルダの伝説 ムジュラの仮面
ゼルダ作品に駄作はひとつもないしどれがいちばんおもしろいかと聞かれると非常に難しいのだが、ぼくへの影響がもっとも著しいのが『ムジュラの仮面』。
任天堂のゲームとは思えない不気味で奇天烈な世界観。『ブレスオブザワイルド』も膨大なイベント数があったが、『ムジュラの仮面』は64のゲームながら密度がすさまじい。アンジュとカーフェイ、ロマニー牧場、トイレからのびる手……。トラウマもいっぱいだ。
まだ子供のころにプレイしたのだがどっぷりハマった。もちろん成長してからリメイクもプレイした。優れたゲームは子供のプレイにも大人のプレイにも堪えられるのである。
FINAL FANTASY VII
単純におもしろさで言えば10のほうが上な気もするのだが、多感な時期の少年への影響及ぼし度で考えると7がいちばんなんですよ。次点で6、8か。ぼくも例外なくやられた。直撃世代ではないのだが。
スチームパンクな世界観でシナリオも基本的にまじめな内容なのだが随所にユーモアが散りばめられていて適度にコミカル。そういえばリメイク版プレイできてねえな。みなさんもぜひリメイク版やる前に原典をクリアしてほしい。
「死んだ人間は『ライフストリーム』という集合体エネルギーの中を漂う」という概念は曲を書いたりするときに参考にしています。要は『千の風になって』ということである(?)。
音楽
三善晃
日本においてもっとも偉大な現代音楽家のひとりでは?
作品は声楽曲、器楽曲、管弦楽曲、吹奏楽曲、交声曲、電子音楽、現代邦楽など多岐にわたりすぎている。
『管弦楽のための協奏曲』は日本人の作曲したシンフォニエッタの最高傑作だと勝手に思っている。動画は都合により『深層の祭』です。短いので聞きやすいよ。
BUMP OF CHICKEN
正直挙げるのはためらったのだが、やっぱりBUMPは聞いていた。アルバムだと『ユグドラシル』が一番好き。
この項はこれで以上です。
相対性理論
相対性理論の登場は間違いなくエポックメイキングだったし、メルクマールとしてずっとシーンに存在している、ようでずっと実態がつかめない不思議なバンド。
中心人物であった真部脩一と西浦謙介脱退以降も鍵盤やパーカッションを採り入れて編成を変えて継続しているのは本当にすごい。活動の内容も他のロックバンドとは一線を画している。
真部脩一と西浦謙介が結成した集団行動というバンドも非常に良質なポップスを鳴らしている。
the cabs
2013年解散。これもう現代音楽(狭義)だろ。でもメロはめちゃくちゃキャッチーですごい。
『anschluss』はたぶん人生で一番再生している曲。そしてぼくにとっての最終目標みたいなもの。
うねりまくるギターのアルペジオ、歌いながら弾いているとは思えないフレーズのベース、爆撃機のようでありながら繊細なドラム、そして歌詞は物事がブチ壊れる一歩手前の儚さの美しさを孕んでいるというか……なんか気持ち悪くなってきたのでやめます。
最近、所属していバンドあみのずのボーカルの紺野メイが高橋國光氏のソロプロジェクトösterreichの楽曲『きみを連れてゆく』にゲストボーカルで参加した。ずっとあこがれだった存在の楽曲にバンドメンバーが参加するなんて、そんなことある?



















