混沌私見雑記

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日本の吹奏楽部は、教育に悪い

吹奏楽部の話をしようと思う。
吹奏楽」ではなく「吹奏楽部」の話である。


わたしは中高と吹奏楽部に所属していた。
木琴フェチという奇特な小学生だったので、それが高じて中学校で吹奏楽部に入部。管楽器がまったく吹けなかったこともあり、希望通り打楽器パートに配属された。
まさかあんなブラック部活とも知らずに。


まあブラックだった。
わたしの学校はいわゆる中堅校で、かつては全国まであと1点、という成績を毎年連発していた古豪だった。
しかしながらわたしが入部した時分は、顧問が代わって2年連続で地区落ちしている状態。

きっと生徒も顧問も周囲から受けるすさまじい重圧の中挑んでいたであろう。
せめて地区大会は突破せねばというプレッシャーがあったと思う。そのため非常に厳しい指導を受けた。
そんな、公立中学校の部活なんだから、適度にやりゃいいものを。

本当につらい3年間だった。
土日祝も休みはなし、朝練はあたりまえ、練習は夜遅くまで。
上下関係はかなり厳しい。言葉遣いひとつ誤るだけでめちゃくちゃ怒られる。
なにか失敗すればすぐにミーティングで吊し上げだ。
書いていて吐きそうになってきた。

上下関係が厳しい、と前述したが、これは親戚同士であろうが兄弟同士であろうが適用された。
上級生であれば、たとえ兄であっても「○○(名字)さん」と呼び、敬語を使わなければならないのである。
わたしにはひとつ下の妹がいるのだが、スポーツが得意だったはずの彼女は魔が差して(熱心すぎる勧誘を受けて)吹奏楽部に入部してしまった。
ただでさえ思春期の少年など家以外では家族との接触を避けたいものなのに、部活でずっと一緒で……名字で呼ばれ敬語を使われるのだ。これは本当にストレスだった。
なお、妹は高校に入学してからは陸上部で中距離走の選手として花を開かせることになる。最初から陸上やってればよかったのに。

わたしはただ楽しく木琴が叩きたかっただけなのだ。
「なんでこんな厳しい部活に……」と本当にゲロを吐きながらつづけることとなった。
ブラック部活は簡単にやめさせてくれない。
遊びにも行けず(田舎なので遊ぶ場所はないが)、3年間を捧げた。
軍隊と一緒で、みんな高度な洗脳を受けかのように部活に従順になっていた。
1年も経てば「休みなんていりません!」と声たかだかに言うような人間が出来上がる。
洗脳にかからなかった人間・途中で目を覚ましてしまった人間にとっては地獄みたいな環境であると言えよう。


そんなわたしのコンクールの成績はと言うと、
1年生:地区大会金賞(代表権なし)
2年生:北海道大会金賞(代表権なし)
3年生:全国大会金賞


おごりなく、わたしの代は全盛期だったと思う。たまたまだけどね。
謙遜でもなんでもなくわたしは普通に下手だったが、運がよかった。

全国大会金賞。
人はこれを華々しい成績だと思うかもしれない。
しかしわたしは当時、まっっっっったくうれしいと思えなかった。いま回顧しても誇らしいとは思えない。
結果発表で「ゴールド金賞」と言われても、涙ひとつこぼせなかった。普段が、日常が苦行過ぎたので。
「あんだけ苦しんだんだから、全国金くらいもらえなきゃ困るよ」という気持ちだった。「がんばったから、順当に獲れた」という感覚だった。
周りの女子らがキャーキャーよろこんでるのを見てめちゃくちゃ冷めたくらいだ。思春期特有の逆張りとかではなく、本当に心がブチ壊れていたのである。
こんな悲しい話ある? こんな価値のない全国金賞ある?

多感な時期にえげつね~体験をしたので確実に今の人格に影響を及ぼしている。
引退したあとの解放感はすさまじかった。こんなに生活って楽だったっけと思った。

音楽は好きだったので、高校に入っても吹奏楽部に入った。
高校の部活はすべてが適度にゆるく、本当に楽だった。楽しかった。
コンクールは3年連続北海道大会銀賞だったが、それでもよかった。
コンクールに重きを置いていなかった。
やっぱり人間、楽しいところで楽しいことをやるのが一番なのだ。

前置きが長くなりすぎた。
「日本の部活吹奏楽、教育によろしくない説」を話していこう。


諸悪の根源は全日本吹奏楽コンクールにある。
とまでは言わないけど、わりと大きくはある。
日本の吹奏楽はコンクールに重きが置かれすぎている。
利権と忖度が見え隠れする、あの吹奏楽コンクールに。

 

 

強豪校に入ってもキャリアパスにならない

コンクールで"勝てる"吹奏楽部を作り、それを目当てにした学生を集める」のは日本全国の私立高校が行っている生徒集め戦略である。

学校は優秀な指揮者(教員)を誘致するし、演奏技能が高い学生を推薦で入学させたりする。
そして全国大会を目指す。全国大会に出場してよい成績をおさめれば、「わたしもあの学校で演奏して全国に行きたい!」という翌年度の入学生も増える。
いわゆる部活ビジネスである。


スポーツと違ってせつないのは、吹奏楽コンクールの全国大会に出場したところで、なんのキャリアパスにもならないことだ。


いわゆるコンクール強豪校(音楽に強いも弱いもないんだが)の吹奏楽部を卒業したからといって、プロになれるわけではないし、音大に入れるわけではない。
キャリアパスにもならない、たかだかアマチュアのコンクールに貴重な若い時間と親の金をかけるのは悲しすぎると思わないだろうか。


「技術的には上手くなるので、音大受験の際は有利にはなる」という意見もあるかもしれない。が、そんなことはない。
そりゃまあ吹奏楽コンクール強豪校を卒業して音大生になりプロになる人もいる。

しかしである。本当に楽器のプロを目指すのであれば「吹奏楽」に集中したり「吹奏楽部」の活動にかまけている場合ではない。
音大に入るにはピアノを弾いたり音楽理論を勉強したり古今東西の曲を研究・演奏したりしなければならない。さらに学校の勉強も人並み以上にできなくてはならない。
コンクール強豪校でハチャメチャな量の練習をした上で音大入試用の勉強ができるだろうか? できないことはないし、している人もいるし、それをやってのけた知り合いもいるはいるが、プロを目指すのであれば非効率だろう。

学校によってはプロの外部講師を招くこともあるので、たしかに良質な指導を受ける機会にはめぐまれるかもしれない。
しかし結局は団体の中のひとりとして、吹奏楽コンクールで勝つための指導をされるのだ。「コンクール映え」の演奏になるよう仕上げられるのである。

吹奏楽コンクール強豪校を卒業したところで「コンクールで勝てる人間」が出来上がるだけだ。30分の交響曲を初見で演奏できるようにはならない。

プロへのキャリアパスにならないどころか、日本の吹奏楽部がやっている「音楽」は、本来の音楽表現とはかけ離れたところにあり、それ故に「教育」に悪い。

 

吹奏楽部の行儀の悪さ

では「コンクール映えの演奏」とはなにか。

日本の吹奏楽において横行している悪行はおもに2点
①楽曲の意図を無視した極端なカット
②楽譜の指示を無視した無断で独自の編曲行為
である。

①楽曲の意図を無視した極端なカット

吹奏楽コンクールの総演奏時間は12分である。これを超過すると失格。
課題曲と自由曲をこの12分間の中で演奏しなければならない。
課題曲は3〜5分程度。残りの時間で自由曲を演奏する。


この自由曲については、各学校本当にやりたい放題である。


自由曲を演奏できるのは7〜9分程度。
この時間内に収められるよう、各学校は自由曲に「カット」を施す。
本来であれば演奏時間に20分要する曲を7分に短縮させたりするのである。
非常によろしくない行為だ。
ただ「最初から時間内に収まる曲を選曲をしろ」というのもそこそこ無理がある話なので、これはまあある程度ゆるされてしかたない(ある程度、である)。


問題は、あまりに強引なカットの横行である。


吹奏楽コンクールでは、多楽章構成の交響曲がカットや継ぎ接ぎを施され「派手なところをかいつまんだハイライト版」として演奏されているのだ。しかもテンポを爆速にしたりして。


もともと30分あるような曲が7分に短縮させられてしまう」と聞けば、原曲とはもはやまったく別物の印象となってしまうことは、みなさんも想像に難くないだろう。
これは著作権侵害と言っても過言ではない。素人による「無断の編曲」である。


そりゃ「なにがなんでも時間内に収まる曲を選曲をしろ」とは言わないが、わざわざ長大な曲を選ぶのはあまりにナンセンスである。
最近だとマッキー作曲の交響曲『ワインダーク・シー』がよく演奏されているが、あの曲が三楽章構成だということを知っている人はどれだけいるのだろうか?
全国大会で初演された団体の「名演」のカットが丸々参考になったりするのが、また行儀が悪い。


教育とは本来、多楽章構成の交響曲をじっくり嗜み、分析し、カットせず演奏することではないだろうか。
ちなみに時間無制限の定期演奏会などでも「カット」は行われる。なんと嘆かわしい。


特に標題音楽にも関わらず作曲者の意図を完全無視するカットは本当にひどい。


天野正道作曲の『おほなゐ 〜1995.1.17 阪神淡路大震災へのオマージュ〜』はひどいカットがよく見られる例のひとつである。
天野先生がどう思ってるかは知らんがわたしが作曲者であれば怒るようなカットばかり。でも天野先生はコンクール文化には寛容そうだなあ。

『おほなゐ』はタイトルの通り阪神淡路大震災の情景を描いた曲である。


www.youtube.com


この曲は神戸の活気あふれる街を表現するポップスパートが序盤にある。その曲中、パーカッションと低音楽器の強奏が前触れなくいきなり割りこんできて一気に激しいパートへ変容。「平和が地震によって一瞬で瓦解する」様を描くのだが、多くの団体はこの「地震が起こる神戸の平和な街」の描写であるポップス部分をカットしてしまうのだ。
前奏部をそこそこに演奏したあと、なんの前触れもなく、いきなり地震を起こしてしまうのである。標題音楽として成り立っていない。成り立たせる気がない。ちなみにこの『おほなゐ』も三楽章構成で30分ほどある曲である。


他にも例を挙げるとキリがない。いきなり処刑される『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』とか……。
吹奏楽ではなぜか「なんで作曲家の意図を考えずにここだけ抜粋したの?」といったことがよく行われているのだ。

②楽譜の指示を無視した無断で独自の編曲行為

まあカットに関してはルール上いたしかたない部分もある。それでも長大な曲を無理矢理まとめるのはどうかと思うので、短い曲を選び、極力カットをせずに演奏するべきだと思うが。
カットはまだ1000000000歩ゆずるとして、派手に曲を魔改造するのは本当にわけがわからない。


曲の最後の一音をフェルマータにしたり、本来楽譜には存在しない打楽器を「派手になるから」という理由でつけたしたり、トロンボーンがソロをとるところをトランペットに変更したりと、「それやったらコンクールの点数が上がるんですか?」みたいな「編曲」の数々。
これがはたして教育か、と。


吹奏楽コンクールの指導者なんてのは、つまるところアマチュア音楽団体の音楽監督でしかない。
そんなアマチュア人間たちが我が物顔で「編曲」を行うのである。
プロの作曲家からしたら、たまったもんじゃない。


近年、全国大会では演奏されないことはないんじゃないかというド定番曲に、高昌帥の『ウインドオーケストラのためのマインドスケープ』がある。
この曲を楽譜通りに演奏する学校は本当に少ない。「改変することがスタンダード」となっている、奇妙な事態なのである。

この曲は本来、曲のラストは低音楽器の突き刺すような重苦しい音で終止する。

 


ウインドオーケストラのためのマインドスケープ -Mindscape for Wind Orchestra-

 
上記の動画が正しい楽譜通りの演奏。

しかし、コンクールではラストに高音を付け足してド派手に終える団体がほとんどなのである!!!!!!!!!!!なぜだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

一番最初にどっかの団体が高音を付け足したのを、どっかの団体が真似して、さらにまた別の団体が……という流れなのだろうが。なぜ、アマチュア団体の改変を参考にしてしまうのだろう。
この曲の最後は各団体異常なくらいイジり倒している。コンクールでは改変されずに演奏されることのほうが少ない、本当にかわいそうで稀有な例である。
あまりの改変されっぷりに「ド派手な高音で終わるのが通常」と思いこんでいる人も少なくはない。


こういったことがよしとされているのが日本の吹奏楽部である。

野球で喩えると「悪手な戦法や外道な戦法がよしとされ、プロでは通用しないようなヘンテコな打法投法を教えられる」というのが、日本の吹奏楽部である。
本当に極端に言うとこう。もちろん全部が全部そうとは言わんが、残念ながら多くはそんな感じだ。
日本の吹奏楽部はまっとうな音楽人を育成するにはあまりにも不適切な環境と言える。

「音楽は心だ」
「普段の生活態度が音に出る」
と、全国大会出場常連校の指導者がテレビで言っているのを前に観たのだが、彼は作曲家からクレームが入るほどの楽曲改竄常習犯である。


またわたしの所属していた吹奏楽部の話で申し訳ないが、中学生のわたしから見ても奇天烈なカットをほどこしたり、「迫力が出るから」と言って打楽器を追加したりしていた。もちろん反論なんてできなかったが。
強豪校に限らず、田舎の公立中学校でもそのようなことは横行している。もしかしたら田舎の無名中学校のほうが行儀が悪いかもしれない。

そういえばロクに打楽器の奏法指導なんてされなかったな。そのくせダメ出しはめちゃくちゃ多かったけど。それで全国大会金賞までいったの、よく考えたら驚異的なことだな。今コンクールの映像見るとティンパニのセッティング間違えているんだよな。
うちの吹奏楽部はどう見ても管楽器バンザイ、打楽器はカス、みたいな方針だった。トレーナーは「クラリネットがよければ勝てる」が口癖で実際にクラリネットはガチで贔屓されていた。まあ実際にそれで結果出してたけどさ。
ドラムセットやティンパニ骨董品だったからな。顧問にもトレーナーにも「打楽器のヘッドは消耗品であり、交換する必要がある」ということは知らなかったらな。ティンパニのヘッドなんて10年は使われていて謎のベトつきがあったからな。寄付金で楽器買えることになったとき中学生には身分不相応なクソ高い30万円くらいするクランポンクラリネットが2本もあてがわれたのに骨董品であるドラムやティンパニは交換されずに「今あるものはピッチが悪くて管楽器が吹きにくいから」とかいう理由でシロフォンがやってきたときにはガチで絶望したクソクソクソクソクソクソクソクソ(怒りのあまり太文字で強調)。

まとめ

とまあ、このように、「吹奏楽コンクール」は生徒集めのための技術オリンピックの側面が大きく、そこに至る過程は本当に精神修行である。トラウマも生まれる。
あとみんな燃え尽きて楽器を続けないがち。


あまりにも「卒業後になにも残らない」現状はいただけない。
私の中学から全国常連校に行った同級生は、大学に入るやいなやあっさりと楽器をやめてしまった。彼女は「部活動が好き」で「そこで活躍している自分が好き」で「全国大会に行って達成感を得たかった」だけなのでは? 本当に音楽が好きだったのだろうか?


このような子供は多いらしい。部活が終わったらそれでおしまい、吹奏楽部でおしまい、という子供が。
もちろん楽器をつづけるのはかんたんなことではないが、興味のあることには関心をもちつづけるはずなのだ。
音楽は、演奏しなくても聴くことはできる。なのに、部活卒業後には演奏会にすら行かなくなる者がほとんどだ。
たまに曲を聴くにしてもプロの演奏ではなくコンクール全国大会常連団体の改変やカットをYouTubeで聞いてしまう。


こうして「吹奏楽部」で育った人間は「吹奏楽コンクールでよく演奏される曲」と「ポップスステージでよく演奏されるポップスアレンジ曲」だけで世界が完結してしまうのだ。
クラシックにも現代音楽にもジャズにも興味をしめさない。
リテラシーが、あまりに低い。


そしてなまじ自信だけはついているから、すぐに音楽的なことで他人にマウントをとってしまう。悲しいことに、これが「教育」の結果なのである。
キャリアパスにならない云々はおいておいて、リテラシーやモラルの低い人間が濫造されつづけているのは本当によくないことだと思う。もちろん吹奏楽コンクールや吹奏楽部が完全に悪者というわけではない。


強豪校の顧問だって、そりゃ全員が音楽的犯罪者というわけではない。中にはすばらしい指導をしている方もいらっしゃる。
また強豪校の指導者はビジネスのためにコンクールで勝つバンドを作らなければならないので、しかたない部分も大きいかもしれない。それを容認している業界は問題だが。

吹奏楽部は日本全国の小中高校に部活動として設置されている。
部費さえ払えば安価に器楽合奏にとりくめるのはすばらしいことだ(吹奏楽目的で私立校に行ったりすれば莫大な金はかかるが)。

それだけに、だからこそ、教育に悪いことを行ってはならないと、わたしは思う。
曲の改竄以外にも、団体間でのコピー楽譜の貸し借りとかね。
そして吹奏楽民たちは(もう大人になってしまった人も)、吹奏楽部の指導に騙されず、もっと吹奏楽"部"以外の広い音楽の世界に興味をもってほしいなと願う。


そんなわけで吹奏楽関連の記事、読み応えのあるもの他にもありますので、ぜひ読んでいってください。

 

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