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吹奏楽は"基本的に"管弦楽に勝てない

音楽のことやら小説のことやら映画のことやら自転車のことやら雑多に書いているこのブログで、一番アクセス数の高い記事はこれである。

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やはりタイトルがセンセーショナルだからだろうか。
憤慨しながらアクセスした人も多いに違いない。
そしてこの記事タイトルも相変わらずのノリである。

当記事は『吹奏楽部は、教育に悪い』の続編となっている。

そろそろ「おめぇ、吹奏楽に親でも殺されたんか?」という声も聞こえてきそうだ。
しかしそれだけ筆者は日本の吹奏楽吹奏楽部にまつわるあれこれがどうにかならんものかと思っている。

今回は管弦楽と比較しながら、吹奏楽という編成の機能について話をしようと思う。

 

目次

 

吹奏楽民は視野も知見も狭い

さて、吹奏楽が好きなみなさん。
あなたたちは、吹奏楽のどこが好きなのか、説明できるだろうか。

おそらく「どこが」好きなのか「具体的に」かつ即座に説明できる人はほとんどいないと思う。
回答できる人も「みんなでひとつものをつくりあげるやりがい」だとか「部活が楽しい」などで、吹奏楽という形態のもつ音楽的な魅力については言及できない人がほとんどだと思う。

言い切ってしまうが、吹奏楽が好き」と言う人の大多数は、学生時代の思い出による補正でしかない

まあ、それでもいい。
それでもいいのかもしれないが、
少しは「学生時代の部活での思い出と、その延長」としての吹奏楽ではなく、「音楽」「芸術」として吹奏楽のことを考えてみないか?

この記事、「管弦楽吹奏楽の違いなんて気にしたことないけど、部活の思い出補正で吹奏楽が好き」という吹奏楽好きにはもちろん、「やっぱ管弦楽が至高でしょ。吹奏楽とか下位互換に過ぎない」と思っている管弦楽好きにも読んでいただきたい。

 

『風紋』をふたつの編成で聴き比べてみる

吹奏楽は"基本的"に管弦楽に勝てないというタイトルに、吹奏楽ファンの方は憤慨しているかもしれない。

怒る前にまず、冷静に考えてほしい。もしも管弦楽より吹奏楽が優れているのであれば、大河ドラマのテーマ曲は吹奏楽編成だっていいはずだ。
しかしみなさん知っての通り、大河ドラマのテーマ曲は必ず管弦楽編成で書かれ、NHK交響楽団が演奏する。

映画やゲームの劇伴だってだいたいが管弦楽だ。
わざわざ吹奏楽編成を意識してつくられる曲もないことはないが希少だろう。

理由は簡単で、吹奏楽管弦楽と「同じこと」をやっても勝てないからである。
同じことをやっても、最大限がんばっても、下位互換にしかならない。

ここで往年の吹奏楽ファンなら知らない人はいないであろう『風紋』を聴いていただきたい。

これ、保科洋氏自らが書いた管弦楽版があるのを知っているだろうか。


吹奏楽


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管弦楽


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どちらがいいだろう。

圧倒的に管弦楽版じゃないか?

本当に吹奏楽版が優れているのであれば、保科氏も後からわざわざ管弦楽版なんて書かなかったのではないだろうか。
それは言い過ぎか? それでも『風紋』がわざわざ管弦楽版にトランスクリプションされたのは、「吹奏楽ならでは」の楽曲になりきれていなかったからだと筆者は思う。
※これは保科氏が吹奏楽向けの曲を書き切れていないという批判ではない。『風紋』は全日本吹奏楽連盟の委嘱で吹奏楽コンクール課題曲として作曲されたものであり、中高生も演奏することを考えるとある程度平易かつ親しみやすいメロディである必要があった。

いや『風紋』は吹奏楽版のほうがいいだろ、という人も、まあ最後まで読んでいってほしい。

 

なぜ吹奏楽は"基本的"に管弦楽に勝てないのか。

吹奏楽管弦楽に『負けている』点は、ヴァイオリン属(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)という強大な存在を欠いていることである。

吹奏楽にはコントラバス――非常に稀にチェロが参加することもあるが――をのぞき、弦楽器が存在しない。

ではヴァイオリン属の有無でなにがそこまで変わってくるのか。

①表現力

あたりまえだが楽器の種類が多ければ多いほど、楽曲の表現力、楽団としての表現力は高まる。
管弦楽クラリネットやトランペットやフルートといった管楽器群も擁する。
つまり、吹奏楽で出せる音は、管弦楽でも出せるのである。

吹奏楽にはサックスとユーフォニアムというアイデンティティがある!」と言う方もいるかもしれないが、それだけでヴァイオリン属の圧倒的な音色と表現力を凌駕するほどの力はあるだろうか。
それに、管弦楽でも近現代曲ではサックスやユーフォニアムが組みこまれることだってある。

もちろん楽器の種類が多ければ多いほど優れた音楽になるわけではない。
少人数編成の室内楽は、それはそれとして素敵な形態であるわけだし。

ただ、大規模な器楽合奏体として比較すると、管弦楽に軍配が上がるのはたしかだろう。

倍音

ヴァイオリン属倍音は、管楽器のそれとは明らかに違う。
弦楽器の倍音は芳醇で荘厳な印象を与えてくれる。

ちなみに吹奏楽において、芳醇な響きのサウンドを奏でるバンドを「まるでオーケストラ(管弦楽)のようなサウンド」と誉めたりするが、この言葉がある時点で……という感じもする。

③高音域の問題

ヴァイオリンが奏でる高音域をカバーできるのは、管楽器ではピッコロくらいのものである。
これはかなり手痛く、吹奏楽最大の弱点ではないかと思う。

管弦楽おける主役はヴァイオリン。
対して吹奏楽ではクラリネット(ソプラノクラリネット)が主役の役割をもつ。

クラリネットはそこそこに音域が広く、音色の汎用性が高いため、吹奏楽では主旋律からハーモニーまで担う、管弦楽におけるヴァイオリンのような楽器である。

そんなクラリネットが得意な音域はヴィオラに近い。
ヴァイオリンほど高音域を出すことには向いていないのだ。
向いていないというだけで出ることは出るが、あくまでも飛び道具的に使われるもの。

主旋律もハーモニーも担う、一番人口の多い主役級の楽器が、高音域を出せないのだ。

「でもソプラニーノクラリネットがあるじゃん」「ピッコロで高音域もまかなえるじゃん」と思ったあなた、ソプラニーノクラリネットとピッコロという楽器が持つ音色の強すぎるパワーを考えてみてほしい。
吹奏楽においても専門の奏者が常設されていない。
言い方は悪いが、どちらも飛び道具的に使用される楽器だ。

吹奏楽は特に高音域の弱奏に向かない。
高音域の弱奏ができるのはフルートくらいのもの。
ヴァイオリンは繊細な操作が可能であるため高音域の弱奏も可能である。しかも大群で。

 

吹奏楽という編成の機能

では吹奏楽アイデンティティとはなにか。
それはサックス群やユーフォニアムの存在ではない。

管弦楽にはない吹奏楽アイデンティティは、ある種の「いなたさ」「下品さ」であると思う。

……怒られるか?

ここで先ほどの『風紋』を例にとればわかると思う。
圧倒的に管弦楽版のほうが芳醇で豊かで上品な演奏ではないだろうか。
吹奏楽版は、どうしてもいなたい印象がぬぐえない。

逆に、吹奏楽はここにこだわるべきではないかと思っている。
この「いなたさ」を活かしてこそだと思う。

では、なぜ吹奏楽はいなたくなるのか。

ヴァイオリン属という上品な音色の楽器が存在しないから……でもあるのだが(これは大いにあるのだが)、理由はほかにもいくつかある。

管弦楽吹奏楽において決定的に違う点がひとつある。

アインザッツやリリースへのこだわりの強さである。

吹奏楽はとにかくアインザッツ(発音の出だし)をそろえることにこだわる。
そしてリリース(音の終わり)もきっちりそろえることを求められる。
もちろん管弦楽だってそうなのだが、吹奏楽ではそれが顕著に浮かび上がる。

管楽器という楽器の特性上、アタック感が非常に強いからだ。
アインザッツとリリースがそろわないとどうしてもバラけた印象になる。

対して弓で撥弦する弦楽器はやさしいアタックになる。リリースもそう。
ぬるっと入り、ぬるっと終わるのである(もちろん一概に毎度そうなっているわけではないのだが、比較しての話)。

吹奏楽はこのアタック感をフルに活かすべきなのではないだろうか。

「勇猛なサウンド
「攻撃的なサウンド
「重厚なサウンド
をつくる点においては、管弦楽より吹奏楽に分があると筆者は思う。

先ほど吹奏楽の弱点として高音域の不足を挙げたが、逆に管弦楽より管楽器奏者が多い分、中低音域が非常に充実していると言える(管楽器の多くは中音域が得意)。

また、管楽器のみの演奏体である吹奏楽は(弦楽器に遠慮しなくていいので)爆音を出しやすい。
ここで言う「爆音」は「迫力のある大きい音」のことを指す。
※もちろん音量が大きければ大きいほどいいというわけではない。昨今の吹奏楽コンクールにおける爆音信仰は見直されるべきだと思う。

この爆音によって、管弦楽より「勇猛なサウンド」「攻撃的なサウンド」「重厚なサウンド」がつくりやすいのはたしかである。

吹奏楽はこのサウンドの特徴をフルに活かしていくべきではないか。
管弦楽がお上品路線を得意とするのならば、吹奏楽はこのいなたさ、ともすれば下品とも言われるような表現で勝負するべきではないか。

普遍的な調性音楽の曲であれば管弦楽でやればいい。吹奏楽である絶対的必要性はない。

単純に「綺麗な旋律」であれば、ヴァイオリンが一番映える。

と筆者は思う。

しつこいようだが『風紋』をもう一度聴いてほしい。
テーマの旋律など、ヴァイオリンの圧勝だろう。

つけ麺は、もとはラーメンから派生した食べ物である。
最初は余った麺をスープにつけて食べられていたまかないだったものが商品化され、麺を冷やして締めたり、汁の濃度を強めたり、太麺が基本になるなど、ラーメンとは異なる道へ独自に発展した。

吹奏楽もそう(?)。
管弦楽から生まれてひとつのジャンルとなった今、独自の発展をするべきなのである。
※正確には軍楽隊がルーツではあるが、今日の発展した大規模器楽合奏体としては管弦楽からの影響が強いだろう。

巷では単にスープと麺を分離させただけのものをつけ麺と言い張って出す店もあるが、それはもはや「こんなんラーメンで食った方が美味いじゃん」である。

吹奏楽もそう(?)。
「この曲・この表現だったら管弦楽の方が効果的じゃん」と言わせてはいけない。
吹奏楽吹奏楽という編成の機能を活かすべきで、「弦抜きオケ」であってはならないのだ。

吹奏楽は、管弦楽とは在り方を明確に差別化するべきなのである。
そして、それを作曲家、指揮者、指導者はもちろん、奏者と聴衆もそれを意識するべきなのである。

こと日本においては、それがほとんど意識されていないと言っても過言ではない。

  

吹奏楽が得意とする分野の考察

吹奏楽管弦楽と差別化を図り、吹奏楽という編成の機能をふんだんに活かすべきである」と述べたが、ではそれを体現できる曲はどういったものか、具体的に述べたい。

①マーチ、ファンファーレ


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マーチやファンファーレはやはり重厚な金管楽器群がある吹奏楽がとても機能する。

もちろんコンサートマーチであれば管弦楽でやれないことはない。『星条旗よ永遠なれ』は管弦楽版が存在する。

②民族的・土俗的な音楽


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たとえば和風の曲は、吹奏楽のいなたい感じはマッチすると思う。
管弦楽でも昔から和風な曲は存在するが、よりいなたい感じを表現したい場合は吹奏楽に分があるだろう。

大栗裕の『大阪俗謡による幻想曲』や『神話』は管弦楽版と吹奏楽版がそれぞれ存在するが、個人的にはよりねっとりした表現のできる吹奏楽版の方が好きである。管弦楽版もそれはそれでおもしろいオーケストレーションなので聴いたことのない人は聴いてみてほしい。

③ジャズ、ラテン音楽


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上記映像は故・真島俊夫氏のオリジナル楽曲。

黒人音楽やラテン音楽調の曲、ビッグバンドやジャズバンドからのアレンジなどはやはり吹奏楽がマッチするだろう。

ただ念を押して言いたいのは「管弦楽はポップスに向かない」という言説は誤りだということだ。
『ウエストサイドストーリー』だってオリジナルは管弦楽(に豊富なサックス群を加えた)編成である。

吹奏楽はどんなジャンルにも柔軟に対応し、管弦楽はそういった小回りが利かない」
「ポップスが演奏できるのは吹奏楽の利点。管弦楽ではこれができない」
と言われたりするが、それは日本だけの風潮である。実際、海外にはポップス・オーケストラが存在するわけだし。

④現代音楽

ここで言う現代音楽は無調で変拍子が多用される実験的な楽曲、「狭義の現代音楽」を指す。
ピンとこない吹奏楽民は「課題曲Vみたいな曲」だと思えばいい。

先ほど吹奏楽は「強いアタック感」で「攻撃的なサウンド」が形成できるという話をしたが、刺激的な現代音楽は非常にマッチすると思う。中低音に厚みがある点も混沌さを演出する一助になるだろう。

具体的にこれを実践している作家として田村文生を挙げたい。


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巷にある多くの吹奏楽曲は「この曲、ヴァイオリンで旋律を奏でているのが想像つくな」と思えてしまう。
みなさんも実際に適当な吹奏楽曲を選んで頭の中でその曲を管弦楽編成で鳴らせるか想像してみてほしい。だいたいできると思う。

しかし例に挙げた田村文生の作品は、管弦楽編成にトランスクリプションされるのは想像ができない。
真の意味で「吹奏楽という編成をフルに活かし、管弦楽では再現できない」ことをやっていると思う。

余談だが、吹奏楽分野の現代音楽曲はもっと評価がされてもいいのでは、と思う。
残念ながら、一般的な管弦楽マニアは吹奏楽など眼中にない。
現代音楽という分野はそれなりに愛好家が多いのだが、どうしても彼らは管弦楽以外に食指を伸ばさない印象だ。

重厚で攻撃的なサウンドで奏でられる混沌とした現代音楽の演奏機会が増え、それをたくさんの人が認識すれば、吹奏楽の芸術的評価が向上するのではないかと思っている。

管弦楽の現代音楽分野で著名な新垣隆西村朗三善晃あたりが入り口にならないものだろうか。
彼らが吹奏楽編成に向けて書いた曲は、どれもメインフィールドである管弦楽とは意識的に差別化された「吹奏楽ならでは」のサウンドが構築されているので、管弦楽マニアの人もぜひ聴いてみてほしいものだ。

 


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吹奏楽市場という呪縛

筆者は高度な音楽教育を受けてもいないし、音楽でなにかしらの成功を収めているわけではない。
そんな人間がこんなことを言うのは非常に不躾で無礼かもしれないのだが、「吹奏楽ならでは」を念頭に置かれて作られた曲は、こと邦人作品においては少ないと思う。

具体的に名前を挙げてしまうが、長生淳氏の曲などは管弦楽編成のほうがいいのではと思えてしまう。非常に邪推だがこれについてはご本人も自覚があるのではなかろうか。

ではなぜ「これべつに管弦楽でもいいんじゃね」と思われるような吹奏楽曲が氾濫しているのか。

なぜ「管弦楽ともっと差別化しよう」という動きが見られないのか。

これは日本における吹奏楽市場の問題であると思われる。

①団体数

まず大前提として、日本において管弦楽部を持つ中学校、高等学校はかなり少ない。
これは管楽器のほうが弦楽器より安価かつ、演奏技術を習得しやすいことに起因している。
あらゆる面で管弦楽は難しく、吹奏楽は簡単という話だ。

管弦楽部は関東近郊ではそれなりに盛んで設置している高校も多いが、全国的に見るとかなりマイナーである。
地方の吹奏楽民は「管弦楽部が設置されている学校がある」ということを知らないだろう。実際筆者も知らなかったし、存在を知ったときは驚いた。

吹奏楽部は規模の大小はあれど、全国どの中学、高校、大学にも必ずといっていいほど存在するし(大学になると地方でも管弦楽部もわりと多いが)、小学校でも設置されていることが多い(小学校においては金管楽器と打楽器のみの編成が多く見られる)。
また部活動に限らず、吹奏楽は市民団体の数も管弦楽より多い。

長々と書いたが、単純に管弦楽より吹奏楽のほうが人口が多いということだ。

作曲家というのは自身の曲が演奏されてナンボである。
楽譜が売れなければメシが食えない。

であれば、管弦楽より演奏される機会の多い吹奏楽をメインフィールドとすることは当然の帰結と言える。
日本においては管弦楽より吹奏楽の方が盛んであり、作曲家としては吹奏楽編成の曲を書いた方がより演奏機会に恵まれるというわけである。

②コンクール

全日本吹奏楽コンクールの存在は、強力な市場をつくりあげている一因として無視することができない。
中学校、高等学校、大学、職場・一般の4つの部門を合わせると、全国で10000団体以上が参加するという巨大なイベントである。
管弦楽においては、これほどまでに大規模なコンクールは存在しない。

吹奏楽コンクールは、競技的な――ここでは揶揄の意味もこめて「競技的」という言葉を使用する――側面のほか、コンクールで演奏する曲を作曲家に委嘱する学校・市民団体もあり、作曲家の新曲発表会の側面がある。

委嘱曲はだいたい翌年には楽譜会社より出版され、みなこぞってそれを演奏したがる。
全国大会で初演された曲が翌年以降に流行するということもめずらしくはない。

作曲家にとって、吹奏楽コンクールというのは美味しいイベントのひとつなのだ。

言い方は下品になったが、筆者はそれを否定するつもりはない。
吹奏楽コンクールという媒体によって曲の知名度が広まるのはよろこばしいことと言えるわけで。

以上の要素から導き出されること

前提:日本における吹奏楽の人口は管弦楽に比べてはるかに多い。

そのため:作曲家にとって作品が演奏される機会は吹奏楽のほうが多い。

それでいて:吹奏楽は日本において部活動のツールとしての側面のみ異常に発達しており、音楽的・芸術的な面はないがしろにされがち(管弦楽好きにはその面しか着目されておらず、吹奏楽が見下される要因のひとつにもなっている)。

そのため:「部活動としての吹奏楽」にしか関心のない人間しか育たない(リテラシーの不足)。

つまり:学生と、その延長でやっているライトユーザーが大半を占める日本の吹奏楽市場では、どうしても「メロディアスでドラマチックでわかりやすい調性音楽」の需要が高くなる。

→こういった流れで、日本では「これべつに管弦楽でもいんじゃね」という曲が氾濫してしまうのではないか。

……あくまでも筆者の推察による持論なのであしからず。
近からず遠からずであるような気はしているが。

またこれは邦人作曲家への批判ではない。
あくまでも彼らは市場の需要に応えているだけである。

その点、海外は吹奏楽という編成のアイデンティティがフルに活かされている曲がとても多いように思う。
これは日本と比べて管弦楽がより活発だから、差別化について意識的であり貪欲であるということの証左ではなかろうか。

ギリングハム、アッペルモント、ジョージ、マッキーなどなど、調性音楽であっても、しっかり「吹奏楽ならでは」という響きだ。
彼らの曲だって管弦楽へのトランスクリプションができないこともないだろうが、吹奏楽ならではの厚みや攻撃性を活かしているように思える。

日本では高昌師なども挙げられるだろうか。

 


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※2022/9/1追記
高昌師はもともと「現代音楽」の項で田村文生とともに挙げていたがこちらに移動したことを記録しておく。
貼りつけている『マインドスケープ』については現代音楽的な要素はあるが全編そうかと言われるとそうでもないからである。それは初稿の段階で思っていたがまあいいかと置いておいてしまった筆者の至らなさである。『エッセイ』なんかはわりと全編現代音楽チックなのだが権利的に問題なさそうな動画がYouTubeにはなかった。
ただ『マインドスケープ』はファンファーレ的なアプローチが多用されているし、ラストなんかは吹奏楽特有の厚みならではの響きだと思うし、それ(吹奏楽特有の楽曲ではないか、ということ)については考えを変えてはいない。
黙って取っ払うのも不誠実だしこちらで残しておくことにした。

最後に

筆者は先ほど述べた「ライトユーザー」を否定するつもりはまったくない。

吹奏楽をやる人間が全員高い技術と意識を持つべきとは言わない。
スポーツや格闘ゲームと同じように、エンジョイ勢がいたっていい。と言うよりはエンジョイ勢が多い方に越したことはない(本気でやっている人間やガチのオタクしかいない界隈は廃れてしまう)。

「混沌とした現代音楽」「ファンファーレ的なアプローチが多用される楽曲」「攻撃的な、ともすれば下品に聞こえる音楽」にシフトしていくべき、というのが恣意的な意見であることは自覚している。
現在の日本の吹奏楽市場を考えると現代音楽をメインストリームとするのは現実的ではない。

それに筆者は「管弦楽に簡単にトランスクリプションできるような吹奏楽曲は駄作だから絶滅しろ」と主張するつもりはない。

初心者の入口として平易な曲は存在しなければならないわけだし。

コンサートのプログラムとしてもそういった曲は必要なわけだし。

ただ、少しでも「吹奏楽アイデンティティを意識する人」が増えてほしいと思う。

吹奏楽が好き!」と言うのであれば、部活の思い出を語るのではなく、音楽的な要素を語ることのできる人間が少しでも多く増えてほしい。

少しでも多くの吹奏楽民が「吹奏楽という編成のアイデンティティ」を意識するだけで、日本で作曲される・演奏される楽曲の在り方も変わってくるかもしれない。

筆者は管弦楽マニアに対しても、吹奏楽の編成としての魅力は存分にあるのだということを知ってほしいと思っている。

それを知ってもらうにはまず、吹奏楽民のリテラシー向上からだ。

【了】

 

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