混沌私見雑記

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吹奏楽の編曲作品について考える

こちらの記事で書ききれなかったことを余談的に記す。
 
吹奏楽界隈において「往年の管弦楽クラシック曲からの編曲モノが至高。吹奏楽用に書かれたオリジナルなど邪道」という考えの人間はいまだに一定数いる。
 
ほんの20~30年ほど前まではこのような考えの人間が大多数を占めたらしく、吹奏楽コンクールにおいて邦人の現代曲などやろうものなら「邪道」と叩かれることもあったらしい。
邦人オリジナル作品があふれる現代から考えると信じられない話だ。
 
徐々に減ってきてはいるが、筆者が現役だった10年ほど前にはそういった考えのジジイは多くいたように思う。
 
筆者はこのようなジジイに対してはじゃあ管弦楽やれよ(聴けよ)以外の感情がない。
 
冒頭にリンクを貼った記事でも書いたように、
①ヴァイオリンの高音域をまかなえる楽器は、吹奏楽にはない、と言っても過言ではないから
吹奏楽管弦楽と同じことをしても、管弦楽には勝てなから
である(詳しくは該当記事を読んでほしい)。
 
クラシック至上主義という思想は、結構。
それはそれで尊重する。
だがクラシック至上主義であれば管弦楽をたしなむべきであり、吹奏楽にそれを強いるべきではない。
 
なんだろう、クラシック編曲が大好きジジイは。どこからくる思想なのだろう。
本当は管弦楽をやりたくてもやれてないコンプレックスだろうか? 
 
筆者は、管弦楽から吹奏楽に「単純にトランスクリプションされた編曲モノ」には、「芸術的」な意義は"基本的には"ないと思っている。
 
圧倒的表現力と倍音をもつ弦楽器を欠いて、実質的に音域を狭めて、調整まで管楽器用に変えてまで、わざわざ吹奏楽編成に編曲する意義とはなんだろう。
 
もちろん吹奏楽のオリジナル曲が少なかった黎明期においては、その存在意義はあっただろう。
 
ただ、吹奏楽用に書きおろされた楽曲が多数存在する現在、管弦楽からの編曲に「固執」するのはもはや不健全と言える。
 
しかし、私は管弦楽からの編曲が完全に絶滅すべきとは思っていない。
 
また、単純なトランスクリプションではなく、「よし、吹奏楽オーケストレーションで、この曲を効果的に響かせてやるぞ。あらたな側面を見せてやるぞ」といった意欲をもって書かれ、それが実践できていれば、管弦楽曲からの編曲でも、意義があると思う。
 
また、少なくとも「教育的」な意義はある。
 
日本において管弦楽部を持つ中学校・高等学校は少数である。
管弦楽部は関東近郊ではそれなりに盛んで設置している高校もあるが、全国的に見るとかなりマイナーだ。
対して吹奏楽部は設置されていない中高はないのではないかというくらい非常にメジャーである。
 
吹奏楽という媒体でしか器楽合奏の体験ができない子供たちにクラシックを触れさせる・学ばせる」という点では、管弦楽クラシック曲からの吹奏楽編曲は重要な役割を持っていると言えるだろう。
 
あとは、吹奏楽のコンサートにおいてもプログラムのひとつとしてはクラシック編曲はあってもいいわけで。
 
なにが言いたいかというと、とにかくオケ編曲に「固執」するのは「不健全」だという話である。
 
※※※※※※※※※ここからべつの話※※※※※※※※※
 
管弦楽曲以外からの編曲にも触れてみたいと思う。
 
実は吹奏楽では、ピアノ曲やオルガン曲などからの編曲も盛んに行われている。
※これは吹奏楽に限ったことではなく、『展覧会の絵』『クープランの墓』など、ピアノ曲から管弦楽編成への編曲が行われている例は古くからある。
※めずらしいところでは、シンセサイザーと打楽器を用いたバレエ音楽である三善晃の『竹取物語』が天野正道によって吹奏楽編曲されている。ちなみに原曲よりはるかに演奏機会が多い。
 
ゴッソリと楽器編成が変わるわけだし、単純なトランスクリプションではない。
吹奏楽という編成であらたな響きを与えられており、芸術的な意義や意味も見いだすことができる……かなとは筆者は思うが、ここは意見のわかれるところか。
 
最後に「管弦楽曲以外からの吹奏楽編曲作品」の例を以下に挙げておく。