混沌私見雑記

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なぜギタリストは下手クソが多いのか

こんな記事を書いたらわりとバズってしまった。

ayasumi.hatenadiary.jp

寄せられたコメントを見ると賛否両論喧々諤々といった具合で、40%の賛同と40%の罵倒と20%の「記事の中身読んでなくて(あるいは読めてなくて)適当なこと言ってるやつ」という感じでした。

 

まあタイトルが強すぎたきらいはあるし、内容もいささか主観的なところがあったし、文章にも癖があるし、当然の帰結ではある。

 

というわけで、この記事では前回の二の舞にならないように細心の注意をはらって……いません。

今回もおおむねそういうノリのタイトルと記事内容になっている。

 

とはいえ反省を活かしてアナウンスはしておく。

 

・タイトルでムカついた人は読まないでください。あるいは最後まで読んでください。

 

・この記事で言う「ギター」「ギタリスト」はクラシックギターやジャズにおけるギターではなく「ロックバンドのエレキギター」にフォーカスしています。

 

・筆者自身の音楽的能力の低さ、演奏技術の拙さは棚に上げています。

 

・趣味でギターをやっている人についてはまったく咎めるつもりはありません。

 

・人には人の乳酸菌、人には人のイデオロギーがあるように、記事中で語るプレイスタイルのギタリストを全否定するつもりはありません。

 

・ジャンルによっては筆者の主張があてはまらないことも理解しています。

 

こんなものでいいか。では本編に入ります。

 

目次

 

イントロ

ギター。

 

おそらく日本で一番演奏人口が多い楽器である。

 

いやいやピアノだろクラリネットだろという声も上がってきそう。たしかに幼少期にピアノを習う人はかなり多いし、吹奏楽部でクラリネットを担当する人だってそれなりの数がいるわけだが、みんな大人になるとパタリとやめてしまうわけで、アクティブに稼働している演奏人口が一番多いのはギターだろう。

 

ゆえにそもそもの母数が多いわけだが、だからといって単純に下手クソが多いわけではない。

 

その人口のうち下手クソの割合が圧倒的に多いのが、ギターという楽器である。

 

さて、なぜギターは下手クソが多くなってしまうのか(これの是非を議論していると記事にならないので断言して進みます)。

 

①基本独学だから

 

ピアノ、ヴァイオリンなどの弦楽器、クラリネットなどの管楽器を独学ではじめる人は少ない。

 

なぜならこれらの楽器はそもそもの演奏技能の習得が難しい上に、主戦場となるクラシック分野を演奏するにはそれなりの知識が必要だからである。

 

対してギター。

 

これはもうほとんどの人が独学ではじめるのではなかろうか。

 

初期投資費も安く済ませられ、(エレキで、アンプに繋いだりしなければ)音も大きくなく、部屋に置いても専有面積が小さいため、気軽にひとりではじめることができる。

 

そして独学でもある程度弾けるようになるところまでは容易であり、ロックやポップスであれば基本的にコードとキーくらいがわかれば演奏も作曲もできる。

 

というわけで、西洋音楽の基礎を押さえないまま習得しがち、そしてそのままでいがちなのである。

 

べつにそれが悪いことだとは言わないが、西洋音楽の基礎を押さえておかないと人と音楽をやるときに共通言語がなくて困ってしまうぞい(そういうことについて書いた記事はこちら)。

 

対してドラムなんかはわりとプロのレッスンに通っている人が多い印象である。筆者の体感としては9割の人が非独学。

 

そのためドラマーは楽譜を読める人がギタリストやベーシストに比べ圧倒的に多い。ていうかドラムはわりと楽譜を理解していないと演奏できない楽器である。

 

ドラムは家で練習がやりにくいというのもあるが、そもそも独学で習得するにはなかなかしんどい楽器で、なのでだれかに習うことが多い。

 

その点ギターはわりと独学でもある程度は習得可能で、そのために上手い人に習おうという意志が希薄となり、ゆえに基礎をすっとばしている(=下手クソになる要因のひとつ)ことが非常に多いのだと思う。

 

でもやっぱりね、筆者の周りの上手いギタリストやベーシストはちゃんとレッスンに通っていた人だし、独学でもしっかり理論勉強した人ばかりですわよ。

 

②理論がわからないから

①でも述べたように、理論がわかる人・楽譜を読める人が非常に少ない。

 

本当に少ない。

 

いない。

 

拍子の概念すら知らないでやっている人もめずらしくはない。

 

ギターの教則本などでも「楽譜を読めるようになろう!」みたいなプロセスをそもそも載せていないことも多い印象である。

 

③ある程度は才能で弾けちゃうから

筆者の周りには「なんとなくネックを抑えて、出た音を弾いている。これがなんのコードかはわからないけれど、とにかくそれっぽい音が鳴っているので、これでいい」という人間が何人もいる。

 

ひとりふたりではなく、何人もいるのである。

 

海外の著名なプロミュージシャンでもけっこういたはず。

 

これは本当に不思議で、ほかの楽器ではまず見ない現象な気がしている(ピアノとかで本当に稀にいるけど)。

太鼓とかならまだしも、なんであんな複雑な構造の楽器を
本能で弾けてしまうんだよ。素直にすげーよ。

 

④弾けたらそれだけで恰好ついちゃうから

これは筆者の持論なのだが「演奏が難しい楽器」=「ライブパフォーマンスが難しい楽器」だと思っている。

 

「タンバリンならおれでも叩ける」「トライアングルくらいならできる」などとのたまったりする人もいるが、じゃあパーカッションで30分ステージをこなしてみろと思う。

 

聴衆に「違和感なく」「魅せる」ことを意識すると、実はピンボーカルとパーカッションがダントツで難しい。

 

対してギター、そしてベース。

 

なにをどう弾いてもそれなりに恰好ついてしまうのである。

 

どれだけ簡単なフレーズでも、もはやギターを弾いているだけで恰好いい。

 

亀川千代は棒立ちで直線的なフレーズしか弾かないが、格好いい。

 

音楽に造詣のない人からしたらギターを弾いている人を前にしてもなにやってるかわからない。ギター弾いてるってだけでもう私を抱いて状態である。

ドラムなんかは下手クソだとすぐバレますからね。人に見せられるようになるまで・人を魅せられるようになるまで時間と労力を要します。

⑤味・パッションを言い訳にしてるから

あくまでも筆者の体感で主観でしかないのだが、ギタリストは「いや、これがおれの味なんで」を言い訳に下手クソであることを正当化しがちな気がしている。

 

直線的なフレーズしか弾けないくせに「直線的なフレーズを弾くのがおれのスタイル」などと言いがちな気がしている。

 

パッションプレイしかできないだけなのに「ギターはパッションで弾くもの」と思っちゃっている人が多い気がしている。

 

ドラマーなんかは「おれはまだまだ下手だからもっと練習して上手くならなきゃ」という気持ちを持っている人が通常だと思うんだけど、ギタリストにそういった考えの人はめちゃくちゃ少ない印象。

 

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さて、ここまで挙げた要素だが実はベース・ベーシストとも共通する事項である。

 

これより以下はギター・ギタリスト独自の要素について述べたいと思う。

 

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⑥バンドに及ぼす影響力が小さいから

バンドをやったことがある人ならわかると思うが、ベースやドラムに比べると、ギターはバンドに及ぼす力が圧倒的に小さい

 

バンドというのはドラムが上手くてベースが最低限弾けていればそれだけで「普通に良いバンド」となることができる。

 

ギターが下手でもベースとドラムが抜群であればある程度カバーできる。わりと自由にプレイしても問題ないし、ミスをしても目立ちにくい。

 

わりと甘えられる環境にあるため、無自覚に甘えてしまっている人は少なくない……と思う。



⑦アタック感がないから

これもギターの責任感が薄まることの一助となっている要素。

 

世間ではエレキギターを「攻撃的な音を出す楽器」と誤解している人も多い(いや音作りによってはいくらでも攻撃的にできるけどさ)が、そのイメージとは裏腹にエレキギターはアタック(音の出始め)が柔らかい。

 

世間で「優しい音色」だと思われているアコースティックギターの方が激烈にアタックが強い。

 

このエレキギターのアタック感のなさが起因で、テンポ、リズム、タイム感への意識が薄いギタリストが多い(=下手クソが多い)のではないかと、筆者は推理している。ごめん、これはガチの想像です。

 

てかベースとドラムのことを「リズム隊」と表現するのもよくないと思う。ギターだってリズム刻んでるのに。ギタリストがさらにリズムを意識しなくなっちゃうだろうが。

 

⑧コード弾きばっかしてるから

これが書きたくてこの記事を書いたのでこれまでのはすべて前置きです。

 

コード弾き、やめろ。

 

コード弾きなんかしてもひとつもいいことはない。

 

今すぐやめろ。

 

それかギターやめろ。

 

いやすみません、極端なことを言っているのは自覚していますが、わざとなんで……

 

ギターを弾きはじめるにあたってみなさんが一番最初にやることはおそらくコード弾きの習得かと思う。

 

最初はそれでいいし、そうであるべきだとは思うが、コード弾きが基本になってはいけない。

 

たしかに、パンクなどの音圧とパッションが第一の音楽、シューゲイズなどの音の壁をつくることが目的の音楽、ベースレスのツーピースバンドといったコード弾き主体にならざるをえないバンドもなくはない。

 

しかしそれ以外のバンドよ。ベースがルートを弾いているのに、まったく同じ役割のコード弾きをわざわざする必要がどこにあろうか。ギターがふたりいてふたりともコード弾きする必要がどこにあろうか。

 

ない。

 

「でもコード弾き以外にやることがない」んだったら、弾くな。


「おれはボーカルだから歌いながら難しいフレーズは弾けない」んだったら、弾くな。

とりあえずでコードを弾くな。

無難と思いきや、そうでもないぞ。

ベースとギター1とギター2が同じようなことを弾く(コード・ルートをなぞって音の壁をつくる)アレンジはあまりよくない……と筆者の知り合いのベテランプロミュージシャン(嘘松ではなく実在する人物です)も言っていたので、たぶん間違いではないはず。

 

「楽器の役割分離」をするだけで曲のアレンジはひとまず70点のクオリティにはなると思う。

 

コード弾き主体のプレイヤーになってしまうと

・コード弾き以外の引き出しが乏しくなるし、

・曲が稚拙なアレンジに聞こえる(=下手クソに思われる)

ので、よくないですよ。

 

とまあこんな極端で乱暴なことを言ってしまうとART-SCHOOLやらASIAN KUNG-FU GENERATIONやらを否定してしまうことになってしまうわけだが「とりあえずコード弾きしといたろ」みたいな甘えの文化がギタリストのスキル停滞とアレンジの稚拙化に一役買っている感は否めない。

 

「ギターボーカルはバッキングでコード弾き」みたいな固定観念もよくない。

コード弾きはひとつの奏法・手段でしかなく、乱用していいものではないと思う。

 

アウトロ

というわけで、ギタリストに下手クソが多い理由を非常に主観的な持論で書いてみた。

 

また賛否はあると思うが、好きにしてください。

 

最後に筆者が理想的だと思うアレンジの曲をひとつだけ貼っておきます。

テレ東

テレ東

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合わせて読もう!

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ダイパリメイクが発売された今考える、ポケットモンスターはどうしてダメタイトルになってしまったのか

これは『ポケットモンスター』という子供向けゲームに仄暗い愛憎をいだいてしまっている26歳無職男性の手記である。
 
※文中にAmazonリンクが貼られておりますが本ブログはアフィリエイトの申請が下りていないザコです。画像を引用するのが面倒だったので代わりにAmazonリンクを貼っています。
 
目次

ダイパリメイク、ひどい出来でしたね

ポケットモンスター ブリリアントダイヤモンド・シャイニングパール』が発売された。
世界中に切望に切望をされ続けた、待望のリメイクである。
 
しかし蓋を開けてみたところ、
 
・アレなグラフィック。
・追加要素ほぼなし。
・劣悪な操作性。
・あまりに多すぎるバグ。
 
という惨状であった。
あえて言うが、それはもう凄惨であった。
 
まず誤解のないように言っておきたいのは
・グラフィックは好みの問題であるのは確か。
・「原典版に忠実なストーリー、デザインのリメイク」は、けっして悪いものではない。
と筆者は思っている、ということである。
 
グラフィックについては、まあ、「これでいくんだ」と言われたんだから、それはしかたない。
グラフィックによってゲームの優劣は決まらない。
それ以上話すことはない。
 
また「原典版に忠実なストーリー、デザインのリメイク」だって悪くはないし、無難だし、これが丁寧にできれば文句はそうそう出てこない。
「原作にあまり手を加えない形」で非常に丁寧なリメイクが行われた例として『ゼルダの伝説 時のオカリナ3D』『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面3D』『ゼルダの伝説 夢を見る島(Swith版)』が挙げられる(デベロッパーとなったグレッゾ、とても優秀である)。
 
ただ、これまでのポケモンのリメイク作品はどれも原典版からかなり手を加えられてきた。
それは評判が良かった(FRLG,HGSS)にせよ、悪かった(ORAS)にせよだ。
そういった意味で今回のダイパリメイクは肩透かしだったと言える。
 
まあ「原典版に忠実なストーリー、デザインのリメイク」というのは発売前からわかっていたことなので、わざわざあらためて文句を言うつもりはない。
 
あえて文句を言うのならば『ブリリアントダイヤモンド』『シャイニングパール』というタイトルが「原典版からかなり手を加えた別物ですよ感」を演出していることだろうか。
ゼルダリメイクを見習え。「3D」ってつけただけのシンプルなタイトルだぞ。
タイトルが『ダイヤモンド・パール リメイク』とか『ダイヤモンド・パール 3Dリマスター』とかであればここまで炎上しなかったのではないかと思う。
 
まあ、それはいい、それはいいのだ。
 
問題はあまりに膨大なバグの数々である。
 
・フリーズ。
・詰みバグ。
・壁すり抜け。
・テキストバグ。
サウンド消失。
・座標ズレ。
・マテリアルエラー。
・道具、ポケモンの増殖。
・道具、ポケモンの消失。
 
本当に枚挙に暇がない。
ここに載せた以外にもバリエーションに富んだ様々なバグが報告されている。
 
しまいには「『シャイニングパール』でディアルガが捕まってしまう」というパッケージの根本を覆すバグまで存在する。
 
気になる人は「ダイパリメイク バグまとめ」などで検索してみるといい。
 
しかもこれ「がんばって粗探しをしてやっと発見できるバグ」ではなく「普通にプレイしていたらそれなりの確率で遭遇するもの」なのである。
 
これはまずい。
 
また、ポケッチの操作性が劣悪だったり、自転車での移動が終わっていたり、多くのユーザーが意図しないところで段差を飛び越える仕様だったり、テストプレイ時にストレスを覚えなかったのか疑問になる操作性
 
バグは「気がつきませんでした」で済むが(済まないが)、いくらなんでも操作性は改善できただろう。
 
先ほど「原典版に忠実なストーリー、デザインのリメイク」は決して悪いものではないと述べた。
 
しかしそのコンセプトでいくのなら、最低限の品質が保たれていなければならないはずなのである。
 
バグが頻出し、操作性が悪く、原典版との変更点が少ないリメイクであれば「それもうDSのダイパでいいじゃん」「プラチナが一番よくね?」に帰結してしまうのである。
 
現状、Twitterや5chは阿鼻叫喚の地獄となっている。
 
サジェストに「ダイパリメイク ゴミ」「ダイパリメイク バグ」が表示されてしまうなんとも不名誉な事態である。
 
そこでよく散見されるのが
「外注が作ったからだ」
ゲームフリークが作っていればこんなことにはならなかった」
という意見なのだが、筆者はそう思わない。
 
ユーザーがここ最近のゲームフリーク製のゲームを全許容してきた結果が、今回のダイヤモンドパールリメイクにも反映された、当然の帰結であるように思う。
 

ポケットモンスターはどこで変わってしまったのか

 
まず大前提として筆者は、近年のポケモンゲームとしての質が非常に悪いと思っている。
 
とか言うと妄信的な信者が突撃してきたりするのだが、あとでいろいろ提示するのでちょっと落ち着いて読んでほしい。
 
さて、ではポケモンはどこからダメになってしまったのか。
 
この手の「〇〇はどこからダメになってしまったのか」という話題、長く続いているコンテンツではよく語られるものである。
「BUMPはユグドラシルまで。そのあとからダメ」「FFは6まで。そのあとはダメ」みたいなアレだ。
 
ポケモンはどうか。
 
人によってさまざま意見があると思う。
「ブラック・ホワイトからダメになった」
オメガルビーアルファサファイアからダメになった」
「いやポケモンはずっとおもしろい」
といったように。
 
ハッキリしているのは第四世代(『ダイヤモンド・パール・プラチナ』と『ハートゴールドソウルシルバー』)は大傑作であり、ポケモンがゲームとしてひとつの到達点を迎えていることに疑いようはないということである。
 
その後どこからダメになってしまったのか。
 
というわけで、ポケットモンスターというゲームがどこから変わってしまったのか、筆者の独断と偏見……にならないよう、諸々の要素を考察、客観視して述べたいと思う。
 

ブラック・ホワイト(ブラック・ホワイト2)

「『ブラック・ホワイト』からダメになった」はまあまあよく見る意見である。
 
たしかに人間キャラクターの主張が強まり、ストーリーに厨二的要素が多くなるといった昨今のポケモンに見られる要素が萌芽したのはこの作品からだ。
それに嫌悪感を示した人は一定数いた。
 
それでも「ゲームとしてのクオリティ」は決して低いものではなかったと思う。
 
またポケモン作品としてあらたな試み(直接の続編)となった『ブラック・ホワイト2』は、前作の物足りなさを補い、ストーリーも補完するという素晴らしい出来だった。
単純なマイナーチェンジではないというところが評価できるポイントだ。
 
『ブラック・ホワイト』に低評価を押した人も『ブラック・ホワイト2』の出来にはさすがに唸っていたと思う。
 

X・Y

ドットから3Dに移行したことに難色を示したユーザーは少なからずいたので、ここで離れたという人が多い本作だが、ゲームとしての評判は悪くない。
 
筆者も『X・Y』は駄作だとは思わない。
むしろ新ハード・完全3Dの作品としてはかなりがんばっている。
ただ昨今のゲームフリークの悪い癖がはじまった最初の作品であるとは思う。
 
それはストーリーの説明不足である。
 
重厚っぽい設定をチラつかせるものの、それはあまり活かされず、最終的にはユーザーが置いてけぼりでエンディングを迎えるという、最近よく見るアレだ。
 
パッケージを飾る伝説のポケモンもぜんぜんストーリーに絡んでこなかった。
ゼルネアス/イベルタルは「悪の組織がデカい機械を作動させるためにエネルギーとしてどこからか連れてきた」というショボい出会い方をするため威厳がなく、「電池」というあんまりな俗称をつけられるハメになった。
 
マイナーチェンジ版でストーリーの補完がされるものだと思っていたら、結局ジガルデパッケージの作品は出ず、次の世代に移行することになる。
 
またマップデザインに露骨に力を入れなくなってきたのも本作からだ。
 
ポケモンはこれ以降(リメイク作品を除いては)重厚なダンジョンがまったく登場しなくなる。
 

オメガルビーアルファサファイア

 
・ストーリーの大幅な追加、改変。
・世界観設定の大幅な追加、改変。
・特定のキャラクターの大幅な改変。
・ネットの悪ノリを逆輸入したと思われるネタ。
・露悪的なネタ。
・下ネタ。
・エピソードデルタ。
 
好みの問題なのでこれらが一概にダメな要素とは言えない。
 
ただやりすぎた部分は多かったように思う。
 
薄ら寒いノリに辟易し本作でポケモンをやめたという人も少なからずいる。
 
ストーリーは賛否両論が激しい(どちらかと言えば否寄り)。
 
本編クリア後のシナリオ『エピソードデルタ』では、シリーズ史上でも随一のかなり異色なストーリーが展開され、新たな世界観の設定が発覚した。
ストーリーのノリは『ブラック・ホワイト』→『X・Y』でぐつぐつ煮こんできたものがある種の到達点を迎えたと言える(ほめてはいない)。
 
そしてこのノリと世界観設定は『サン・ムーン』へと引き継がれていく。
 
筆者はストーリー途中でラティオスラティアスを強制加入させるのはパワーバランス的にどうなんだとは思った。
初回特典で配布されたメタグロスと組めば圧倒的最強旅パが完成してしまうヌルゲーである。
 
ただ3DSのフルプライスのゲームとしての密度は保たれていた。
そういう意味ではここでポケモンが「ゲームとして」ダメになったとは言い難い。
 
ちなみに本作は昨今の主要作品でディレクターを務める大森滋氏がディレクター職を任された最初の作品である。
 

サン・ムーン

『サン・ムーン』からゲームとしての「完成度」がかなりあやしくなってくる。

 
これまでの作品では見られなかった粗が散見されるようになってきた。
 
一部キャラクターの掘り下げられなさ、一部Zクリスタルの設置場所の杜撰さ(コオリZはあまりにひどい)は目を覆いたくなる。
 
ストーリーは常に無表情の主人公がヒロインを介護しつづけるというもの(ここは好みの分かれるところではある)。
 
入り組んだダンジョンはなしの一本道。
 
うーん。
 
ここでジガルデがおざなりに処理されたことも納得がいかない。
「マイナーチェンジが出せないなら次回作で補完しちゃえばよくね」と無理矢理ブチこんだ感は否めないだろう。
なんでフランスから遠く離れたハワイに?
 
ただフルプライスのゲームとしての密度はギリギリなくはなかった。
 
ちなみに『サン・ムーン』のディレクターは大森滋氏
 

ウルトラサン・ウルトラムーン

筆者はこの作品で完全にゲームフリークのユーザーをなめ腐った態度が露呈したと思っている。

 
マイナーチェンジ版としてはプラチナ以来の発売となった今作だが、『サン・ムーン』からあまりに、あまりに代わり映えがないのである。
 
というか、そこだけ変えたんだみたいな箇所多すぎる(リーリエとのイベントが謎に削除される、国際警察関連、エンドロールが改悪されストーリー中の伏線が意味なしになるなど)。
 
マップグラフィック上には存在するゴルフ場も一部で物議をかもした。
ここはサン・ムーンでも存在していたが入れなかった場所で、おそらくマイチェンでカヒリ関連のイベントが追加されるんだろうな……と思っていたらまさかの追加なし。
 
ほかリュウキなどもカヒリ同様掘り下げなし。
マツリカの試練も手が込んでいない。
 
修正が期待された主人公の表情は相変わらず能面のまま。
 
ストーリーはネクロズマをなんとなく絡ませただけで大筋は変わらない。
 
なのにキャッチコピーは「もはや君の知っているアローラではない」。
 
誇張もいいところであった。
 
そして必要性があったのか疑問でしかない2バージョン発売という形態。
 
過去のマイナーチェンジ版である『エメラルド』や『プラチナ』の出来と比較するとあまりに残念であった。
 
「『完全版』を追加ダウンロードやアペンドROMではなく、フルプライスの単体作品としてリリースする」のであれば、それなりの完成度・追加要素が求められる。
 
『エメラルド』と『プラチナ』にはそれがあったが、『ウルトラサン・ウルトラムーン』にはそれがない。
どころか、オリジナル版の『サン・ムーン』から劣化していると感じられる場面も非常に多くあった。
 
ここで筆者は「ああ、ゲームフリークは完全にユーザーのことなめてるな」と確信した。
 
ちなみに『ウルトラサン・ウルトラムーン』は(次作で大量の削除があったため)史上最多のポケモン・技・システム(メガシンカとZわざ)を使えるゲームである。
 
そういう意味ではフルプライスのボリュームはあるとは言える。
が、ユーザーへの態度は最悪であることは否めない。
 

ソード・シールド

 
ポケモンはついに『ソード・シールド』で「現代にフルプライスで発売してもいいゲーム」としての基準を満たさなくなった
 
Switchの他のソフト……『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』『ゼノブレイド2』『大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL』などと比べてみてほしい。
 
あまりのクオリティの差に愕然としないだろうか?
 
もちろん挙げたのはどれも超大作のAAA級タイトルだ。
 
比べるべきではないという声も上がるかもしれないが、それはポケモンに失礼だろう。
ブランド力や売り上げを見るとポケモンがトップとも言えるわけだし、ならばそれなりのクオリティを求めるのはおかしいことではない。
 
『ソード・シールド』はポケットモンスター』というブランドを抜きにした「ひとつのロールプレイングゲーム」として考えると、あまりにお粗末な出来である。
 
これ以外に適切な喩えが思いつかなかったので乱暴な言い方になってしまい恐縮だが、『ソード・シールド』の「ゲームとしての欠陥」に気がつけないユーザーは「馬鹿舌」である。
 
・Swithのゲームとしては今ひとつなグラフィック。
・説明不足で意味不明なストーリー。
・そもそものボリュームのなさ。
・ネタ切れと思しき後半のジムチャレンジ。
・エンドコンテンツの物足りなさ。
・起伏がなく平坦で一本道のマップデザイン。
・ただ広いだけのワイルドエリア。
・あまりに杜撰なテキスト。
・散見される誤字誤植。
・ムービー中に映りこむマウスカーソル。
 
これらに気がつけないユーザー・あるいは気にしないユーザーは、普段ゲームをやっていないのではないだろうか。
 
……実際、やっていないのだろう(これについては後述する)。
 
『ソード・シールド』は人間キャラクターの主張や箇所箇所の演出には力が入れられており、たしかにそれらは魅力的ではある。
 
その大味でファストフード的な部分にのみに魅了され、細部の粗雑さに気がつけない・気にしないユーザーは「馬鹿舌」であろう。
 
『ソード・シールド』は「ポケモンがリストラされたこと」に批判が集まりがちだが、問題はそこではない。
 
ポケモンが大量削除されても、ロールプレイングゲームとしての完成度が高ければ納得はできた。
 
「ハードが変わってイチからいろいろ作り直すためポケモンの削除はやむを得ませんでした(各所でのゲーフリスタッフの発言による)。でも良い作品にするからゆるしてチョ!」と言いつつ、完成度が鬼低いゲームとなってしまったことが問題なのだ。
 
あと「イチから作り直す」と言いつつグラフィックやモーションは過去作から多く流用している。
ホップの動きなんて『サン・ムーン』のハウの動きまんまである(似ているとかではなくモーションを流用したので「まんま」)。
 
「ゲームを高いクオリティで提供するためにポケモンを削除する」というのは、シンプルに嘘だったのである。
 
第七世代(『サン・ムーン』)の数少ないポジ要素として挙げられるのは「登場するポケモンが削られていないこと」だったが、それすらできておらず、ロールプレイングゲームの完成度としてはお粗末な出来である『ソード・シールド』を、どう擁護できようか。
 
また発売後わずか半年でダウンロードコンテンツがリリースされ、たくさんのポケモンが追加されたことを考えると、当初より構想があったアンロック商法だと疑われてもしかたがない。
 
これでストーリーの完成度が高ければまだ目をつむれたものの、後半の展開は本当に意味不明だった。
 
詳細は割愛するが「ローズはなぜわざわざそのタイミングで暴走しなければいけなかったのか」については理由がまったく説明されなかった。
 
「ストーリー上ここで事件が起きると盛り上がるから」というメタ的な理由以上はなにもない。
 
また「なんで誰もこれにツッコまないんだろう」という粗が非常に多く散見された。
 
具体的に画像・動画つきで挙げてみる。
 

1.なぜか物語も佳境という位置に設置されている「キョダイマックスの説明が書かれたお得な掲示板」

序盤の町や道路で説明するような内容だ。
わざわざここに設置する必然性がない。
本当に意味不明だ。
 

2.ローズが大事件を起こし大会が中断されるにも関わらず、会場や街の様子が一切変わらない。

セリフが変化するのは受付の男だけ。
大事件が起きているのに他のモブはそのまんま。
こういったところが杜撰でなおざりだと本当に萎える。
 

3.街で釣りをしたのに道路のバトル背景になる。

テストプレイの際に必ず気づく場所だがだれも違和感を指摘しなかったのが不思議である。
 
これ以外にも粗を感じる場面は本当に多々ある。

主人公が梯子を乗り降りするときに周りの世界が硬直したり、キャンプでポケモンと触れ合うときのモーションがバトルモーションの流用で殴りがかってくるようにしか見えなかったり。
 
「重箱の隅を楊枝でほじくるみたいなもんだよこれは」などと言う人もいるかもしれないが、いや本当にそうか? けっこう大きい粗ではないか?
他の一流タイトルにはこういった「ん?」となる点はほとんど見受けられない。
 
ゲームフリーク技術力も意識も「携帯機止まり」のままだ。
 
発売当初、
信者やライトユーザーは「ポケモンはたのしい!」「キャラかわいい!かっこいい!」しか言ってなかったし、
アンチはアンチで「ポケモンリストラ反対!」しか言っていなかった。
 
ゲームとしての瑕疵について言及しているユーザーはほとんどいなかったのである。
 
それはある程度しかたがないことで、ポケモン』ユーザーのリテラシーが一般的なゲーマーに比べて特別低いのは否めない。
 
そもそも『ポケットモンスター』というコンテンツのメインターゲットは小学生以下の子供だし、
大人のユーザーでも普段から骨太のゲームをプレイする人は割合としてかなり少ないだろうし、
最もポケモンをやりこむ対戦ガチ勢は「ストーリーなんてどうでもいい」などと言ってしまう始末。
 
「そういうユーザーしかいないわけだし、おざなりかつなおざりにつくってもだれも気にしないでしょ。どうせ売れるし」という態度で制作されてしまったのが『ソード・シールド』というタイトルだった。
 
どれだけ適当に作ってもポケモンというだけで売れてしまう。
 
であれば開発費をかける意味はないわけで、グラフィックやモーションなんて流用でもいいしストーリーやマップデザインに力を入れなくてもいいというわけだ。
 
ちなみに『ソード・シールド』のディレクターは大森滋氏
 

ダイパリメイクが失敗した理由

 
最近のポケモンについて、パブリッシャーである任天堂はどう思っているのだろうか。
 
故・岩田社長がご存命のころはそれなりに介入していたイメージだが、『サン・ムーン』からは野放しになっている印象を受ける。
 
おそらく現在の任天堂株式会社ポケモンゲームフリークは「まあポケモンってだけで売れるし、低クオリティでも数打った方が出し得っしょ」としか考えていない。
 
とまあ、そんな会社らが制作・監修しているゲームなのだから、『ダイヤモンド・パール』のリメイクがああいった出来になったのも当然の帰結と言える。
 
「いや剣盾は神ゲーだけどダイパリメイクは特にひどかったぞ。剣盾はよくてダイパリメイクがよくない」という意見があるかもしれないが、それは単純にダイパリメイクが馬鹿舌にもわかる粗雑さで提供されただけだ。
というか、ついに「馬鹿舌にもわかる粗雑さまで落ちてしまった」と言うべきか。
 
もっと以前から叩かれてしかるべきだったゲームシリーズなのだ。
 
インターネット上では「イルカはクソ会社! ゲーフリはやっぱり神だった!」などと頭の悪い発言をするユーザーがわんさかいるが、ゲームフリークの態度を容認しつづけ擁護しつづけた結果が『ブリリアントダイヤモンド・シャイニングパール』だ。
 
ゲーム制作はすべてがデベロッパーに丸投げされるわけではない。
 
しかも今回はディレクターにゲームフリーク増田順一氏が参加している。
これでゲームフリークに責任がないということにはできない。
 
叩かれがちなグラフィックだってゲームフリークの意向であることは間違いないだろう。
イルカはその気になれば重厚なグラフィックを描くことができるわけで(株式会社イルカ ILCA,Inc.|実績一覧)。
 
もちろんイルカを擁護するつもりはない。
 
結果としてバグだらけの残念クオリティのゲームをつくってしまったのは紛れもなくイルカだ。
そこは責められてしかるべきだとは思う。
 
ただ、イルカに全責任を押しつけるのは本当に頭が悪い。
 
与えられた納期・費用については想像するしかないが、おそらく不十分だったのではないかと思う。
 
バグに関してはたしかに発生の根源はイルカにあるが、しかしデバッグ時間が十分に与えられなかったであろうことは想像に難くない。
 
なにがなんでもと年末商戦に間に合わせた結果だろう。
 
これに関しては株ポケにも任天堂にも責任はある。
 
これが『ゼルダの伝説』のタイトルであればこの完成度ではリリースされていないに違いない(まあゼルダゼルダで開発期間が長すぎるのが問題だが)。
 
ゼルダにはゲームづくりのプライドがあるが、ポケモンにはそれがない。
 
ポケモンは子供を飽きさせないために短いスパンでリリースしなければいけないから、しかたがない」という声もあるが「いやじゃあ巨大な制作ラインをつくってそれなりのクオリティのものを普通に間に合わせたらええやろがい」と思う。
それができなければ短いスパンでリリースしようという方針自体がナンセンスだ。
 

「子供だまし」で終わってはいけない

 
ファイナルファンタジー13』『ファイナルファンタジー14(新生以前)』『ファイナルファンタジー15』が発売したとき、そのクオリティから非難の声が多く上がった(ここ最近毎回だな)。
 
手放しに評価している人はそう多くは見られなかった。
なんなら特にシリーズファンがとりわけ厳しかった。
ファイナルファンタジー』ほどのビッグタイトルであるにも関わらず、だ。
 
これはやはりユーザーの質にあるのかもしれない。
 
ファイナルファンタジー』をプレイするユーザーはあらゆる大作ゲームをプレイする傾向にあり、他の良質なタイトルにも触れているため、そういった意味で舌が肥えている。
 
ポケットモンスター』はどうしても子供とライトユーザーが主となるタイトルだ。
ゲームとしてのクオリティを厳しく見る目は育っていない。
それはしかたない。
 
ただゲームフリーク任天堂株式会社ポケモンはそこに甘えるべきではない。
 
ポケモンだから」と思考停止で手放しで擁護する信者があまりに多くいる現状もよろしくない。
 
筆者もTwitterポケモンの問題点について言及すると「ポケモンをバカにするな」「いやならやるな」という声をたくさんいただく。
この記事で挙げた問題点については反論せずに人格攻撃だけを行う人間がたくさんいらっしゃる。
 
ポケットモンスター』は、そういったユーザーのみなさま方に支えられてしまっているタイトルなのだ。
 
ライトユーザーに罪はないにしても、手放しで擁護するユーザーはタイトルの質を落としている要因のひとつだと言える。
 
今回の『ブリリアントダイヤモンド・シャイニングパール』については「バグは味」「バグを楽しめよ」「致命的なバグはない」「みんな躍起になってバグを探しているだけ」「プレイ人口が多いから多くのバグが発見されるのは当然」「アップデートで修正されるだろうしOK」なんて擁護の声もある。
ちなみにバグは発売から1週間以上経過しても野放しのままである。
 
筆者は大学時代、児童文学を書いている講師からいただいた言葉に感銘を受けた。
 
「児童文学は『子供だまし』であってはならない。優れた児童文学は、大人の鑑賞にも堪えうるものである」
 
これは児童文学だけではなく、様々なコンテンツにあてはまるものだと思う。
 
ポケットモンスター』が仮に子供がメインターゲットの子供向けゲームであったとしても、昨今のクオリティでは「子供だまし」としか評価できない。
 
ブリリアントダイヤモンド・シャイニングパール』における主人公のきせかえやポケモンのつれあるきだって「やってます感」を演出するためだけのものに終止している(デカいポケモンのつれあるきは目を覆いたくなる惨状だしな)。
 
ゲームフリークならびに関連会社が、人気と売り上げにあぐらをかかず、どうかゲーム屋としてのプライドを取り戻してくれることを切に願っている。
 
ブリリアントダイヤモンド・シャイニングパール』を外部企業に委託してまでゲームフリークが自社制作している『レジェンズアルセウス』は、どのような出来になるのだろうか。
 
正直今のゲームフリークにあの規模の作品がつくりきれるのか疑問ではあるのだが、それを覆してほしい。
いや、覆さなければならない。
 
レジェンズアルセウス』の完成度によって、今後ユーザーのゲームフリークを見る目が変わってくるのは間違いないだろう。
 
それにしてもディレクターが発表されてないのが気になるところだが……。

初心者が"今"選ぶべきロードバイクのすすめ

ロードバイクほしいけど、最初の一台はなにを選べばいいのか」という悩みを持っている人はめちゃくちゃたくさんいると思う、というか迷わずに買う人のほうが少ないだろう。
実際筆者も半年くらい悩み続けた。

ロードバイクは20~30万円くらいものが一番「ちょうどいい」モデルがそろっているように思える。
可能であればこれくらいのモデルに手を出してもらえるとのちのち後悔が出てきにくい。

が、これからロードバイクという未知の物体に触れる人にとっては「いきなり自転車に20万円出すのはちょっと……」と躊躇う方も多いだろう。

そこで、「なるべくお安いモデルで」「初心者が」「今(2021年現在)」選ぶべきロードバイクはどれか、それぞれのタイプ別にご紹介させていただく。

クロスバイクを考えている方はぜひこちらの記事をご覧いただきたし。

 

2021年現在のロードバイクのスタンダード

さて、実際にロードバイクを紹介する前に。
先ほど述べた「今(2021年現在)」とはどういう意味なのか。

これは、どうせなら現在スタンダードになっている・これからなっていくであろうシステムが搭載された自転車を選ぼう、という意味である。

多くの人と同じものを使う、というのはけっこうメリットがあって、たとえば機材の互換性があれば一緒にいった人とツーリングで助け合いができたりするし、ショップの在庫も豊富だったりするのだ。

実はロードバイク業界の常識というのはここ最近で瞬く間に変貌を遂げていたりするのだが、少々説明させていただく。

①タイヤが太くなった

ロードバイク、とひとくちに言っても様々な種類がある。

様々な場面に対応するオールラウンドモデル、長距離走行や快適さに特化したエンデュランスモデル、空気抵抗を減らすことに特化したエアロモデル、平坦の道のレースに特化したタイムトライアルモデル、未舗装路レース用のシクロクロス……などなど、これだけで解説記事を書けてしまう(ネットにはこの手の記事が氾濫しているので興味のある人は調べてみてください)。

で、オンロードのレースで使われるロードバイクというのは、基本的にはタイヤがめちゃくちゃ細い。

理由は簡単で、地面と密着する面が少なければ少ないほど抵抗が少なくなり、スピードが出やすくなるからだ。

2017年くらいまでは23C(タイヤ幅23ミリ)という規格のタイヤが一般的だった。

しかし2019年くらいに一気に25C(タイヤ幅25ミリ)が主流となったのである。

詳しい背景は割愛するが「23Cと25Cってあまりスピードの違いはないっぽいし、なんなら25Cのほうが諸々の効率いいし、太い分段差とかデコボコにも(若干)強くなるし、じゃあ25Cのほうがよくね?」ということで、25Cが主流となったというわけである。

というわけで、今選ぶのであれば25C以上のホイール・タイヤのものをおすすめしたい。
まあ現行ほとんどのモデルが25C以上のタイヤを履いているので、ほぼ自動的に25C以上にはなるわけだが、一応ね。

「25C"以上"」とはどういうことかと言うと、2021年現在では「28Cもいいんじゃないか」という話にすらなっているのである。

エンデュランスロード(長距離走行の快適性に優れたモデル)に至ってはデフォルトで32Cタイヤとかついていたりする。

とまあそんなわけで、こだわりがある人が23C以下のタイヤを選ぶのはけっして間違いではないが、初心者があえて細いタイヤを積極的に選ぶ理由もない気がする。

②ディスクブレーキの台頭

ロードバイクの、というか自転車のブレーキには大きく分けて二種類ある。

リムブレーキキャリパーブレーキ)とディスクブレーキである。

リムブレーキというのがみなさんもイメージがしやすいであろう、ブレーキ機構がタイヤのリム部分を挟んで制動するタイプのもの。

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ディスクブレーキはこのディスク状の機構がブレーキキャリパーと呼ばれる部分で挟みこんで制動するタイプのもの。

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どちらにもメリットはある。

リムブレーキのほうが軽く、比較的安価で、タイヤを外しやすい。
ディスクブレーキは比較的重く(最近は軽量化が進んでいる)、高価で、タイヤを外すのにまあまあ難儀する。

というように、どちらもメリット・デメリットはある。

しかし制動性はというとディスクブレーキのほうが圧倒的に高い
悪天候時でも十分に機能する。

ディスクブレーキはもともと強い制動性を求められる競技機材、オフロード向けの自転車であるマウンテンバイクやシクロクロスにつけられていた。

ロードバイクは、長年、本当に長年、リムブレーキを使い続けてきた。
ディスクブレーキのモデルも存在してはいたがごく僅少だった。

ロードバイクロードレーサーとも言うように、もともとは舗装路レース向けのバイクである。
したがってオフロード競技ほどの強い制動性は求められない。
また、ロードレースは複数人が団子になって走る競技であるため、急ブレーキを踏むと逆に危ないという事情もあるのだ。

そんな「リムブレーキ以外ありえない」とされてきたロードバイク業界だったのだが、2018年にUCI国際自転車競技連合)がディスクブレーキを許可すると世界中の大会で解禁の流れが伝播し、各メーカーのラインナップでもあっという間にディスクブレーキの割合が増えた。

増えた、というか、完全に取って代わった。

長年、本当に長年使われ続けてきたリムブレーキが、ほんの数年前まで主流だったリムブレーキが、いまやディスクブレーキに完全に追いやられている。
本当にここ数年でガチのマジのパラダイムシフトがロードバイク界では起きたのであった。

スポーツバイクメーカーのラインナップを見ても、ミドル~ハイエンドのモデルにはほぼディスクブレーキが搭載されている。

メリダなんかはリムブレーキのモデルに「RIM」とつけてはいるもののディスクブレーキのモデルには「DISK」とつけていない。
「標準はディスクですよ」「リムがイレギュラーですよ」と言っているようなものである。

ロードバイクの楽しみ方に多様性が出てきたこともディスクブレーキの普及を後押しをしていると言える。

レースに出ないホビーレーサーにとって、制動性は高いに越したことがない。
であればあえてディスクブレーキを忌避する理由もない(着脱は確実に怠くなるが)。

というわけで、今選ぶのであればディスクブレーキ、できれば油圧式のものがいいだろう。
ディスクブレーキには機械式と油圧式があるが、油圧式は非常に少ない力でブレーキをかけられるからだ。

もちろんリムも悪くない。
愛好家もいるし、ディスクブレーキが主流となってもある程度は生き残っていくはずだ。

しかし、こだわりのない初心者であればディスクブレーキを選ぶべきだろう。

ただ逆にリムブレーキの完成車を新品で買えるのは今だけかもしれないし、今のうちにあえてリムブレーキを体験しておくのも悪くないかもしれない……?

 

というわけで、2021年現在においては、こだわりがない限りは25C(以上)のタイヤ幅でディスクブレーキの自転車を選ぶのがベターと言える。
しかし目まぐるしく変わっていく自転車業界なので、数年後に同じことが言えるとは限らない。

先ほどは挙げなかったがチューブレスタイヤもかなり流行りはじめている。
来年あたりに「まだチューブタイヤ使ってんの?」となってもおかしくはないかもしれない。

 

大前提に

さて、これを踏まえて本題である。

初心者が選ぶべき、具体的なモデル――商品の話。

正直、そんな記事はインターネットを検索すればいくらでも出てくる。
というわけでここは個人ブログならではの癖の強さ・偏見さで書いていきたい。

まず大前提として、新品で、実店舗で買おう

初心者であれば少しでも状態がよいものが望ましい。
知り合いからタダでももらえるとかであれば話は別であるが。

そして通販ではなく実店舗がいい。
身体の寸法を測って適切なモデルを案内してもらえるし、なにより店とのコネクションができるのが大きい。
ほとんどのバイクショップでは自分の店で購入してくれた人にはなんらかの融通を利かせてくれる。

とはいえスポーツバイク専門店に行くのに躊躇してしまう人もいるだろう。
そういった店にはなんとなく独特の近寄りがたい雰囲気が醸し出ていなくはない。
たしかに「気難しい店主」に遭遇する率で言えば、スポーツバイク専門店はカレー屋と並んでツートップだと思う。

不安な人は業界最大手のチェーンであるワイズロードか、メーカーの直営店を選んでおけば間違いない。
嫌な思いをする確率はかなり減るはずだ。

個人店は個人店ならではの形で顧客を大事にしてくれたりもするので、まったく否定するつもりはない。
そういったショップと懇意になることのメリットも計り知れない。

しかし企業的で画一的で癖のない接客を受けたいのならば大手か直営店に行こう。

というわけで「今」初心者が選ぶべき「極力安い」モデルを、初心者の傾向別に紹介する。

A.とにかく安さが正義。
B.ロードにハマる気配があり、レースに出ることを考えている。スピードを出したい。
C.ロードにハマれるかどうか不安。失敗のない買い物がしたい。

の三本です。


A.とにかく安さが正義。

「とにかく出費を抑えてロードバイクに乗ってみたい」という方はこちら。

コストパフォーマンスで言えば台湾メーカーであるジャイアント、メリダの二大巨頭。
極力安くて間違いがないものとなればこのふたつのメーカーから探せば間違いない。

通販専門でドイツからの個人輸入となるがキャニオンという手も……あるが初心者がひとりで買うにはハードルが高い。組み上げも必要だし。

なおいくら安いからと言って大手通販サイトで2~3万円などで買えるロードバイクもどき(ルック車)はおすすめしない
あなたが「とにかく安くてかっこいい見た目の自転車に乗りたい田舎の高校生」だとしたらまた話は別だが。

「ルック車は練習に最適」などと言う人もいるが、そんなん買うなら5万円出してジャイアントかジオスあたりのクロスバイクに乗ったほうがいいと思う。
あとドロップハンドルだからと言って練習なんていらないぜ。

脱線した。
そんなわけで具体的にどんなモデルがいいのか挙げてみる。

①GT - GT Road Sport

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https://www.riteway-jp.com/bicycle/gt/bikes/gtr_sport_6091/

109,780円(税込)

ジャイアントかメリダから探せと言いつつGTである。
機械式だが、ディスクブレーキのバイクで最安値となればこちらだろう。

タイヤが28Cの太さであるのも初心者には安心感があってよい。
少し前までは23C、25Cが標準だったのに、エントリークラスは28Cのタイヤを履いている時代か……。

しかし、全体的に野暮ったさがあるというか、若干「ロードレーサー味」に欠けているように思えなくもない。
まあGTはマウンテンバイクを主としているブランドなので……。

②コーダーブルーム - FARNA TIAGRA

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https://khodaa-bloom.com/bikes/farna/farna_tiagra/

121,000円(税込)

ジャイアントかメリダから探せと言いつつコーダーブルームである。
そしてディスクブレーキを選べと言いつつリムブレーキである。

これ、エントリークラスのロードバイクとしては大本命のバイクと言える。
値段はエントリークラスだがコンポーネント(パーツ群)がエントリークラスではない

ちょっとここでコンポーネントの解説をさせていただく。

コンポーネントの世界的大手は三社。
シマノ、カンパニョーロ、スラムである。

このうち世界一のシェアを誇るのが日本のシマノ
大阪府堺市にある。
ちなみに釣り具メーカーとしても超一流だ。

で、このコンポーネントには各社ランク別に製品を数種類展開している。
シマノ社であればこんな感じ。

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で、コーダーブルームのFARNA Tiagraというロードバイク、その名の通りコンポーネントはミドルクラスのティアグラを採用しているのである。

この価格帯だとコンポーネントクラリス、がんばってもソラにとどまる。

しかしこの自転車、12万円程度でティアグラ完成車を買えてしまうのある。
しかもブレーキはワンランク上の105がついている。
何事?

ディスクブレーキはどのランクでも制動力が変わらないのだが、リムブレーキに関してはランクで大きく性能が変わる。
レース向けコンポである105のブレーキがついているのは非常にうれしい。

また「機械式ディスクブレーキ乗るなら105のリムブレーキを使ったほうがいい」という意見もあったりするし、下手な機械式ディスクブレーキより買いかもしれない。
まあそれでも雨だと機械式ディスクのほうが止まりやすいとは思うが。

 

B.ロードにハマる気配があり、レースに出ることを考えている。スピードを出したい。

であれば最低でも30万円くらいのカーボンロードを買ってしまったほうがいい。

安くないじゃないかって?
うるさい、レースに出る気マンマンなら最初から30万円くらい出してしまえ。
そうしたほうがのちのち後悔がない。

レース出場も視野のガチ志向であれば以下の条件はクリアしたい。

・カーボンフレーム
コンポーネントが105以上

現在ロードバイクの車体に使われている素材は主流なものが三つ。
アルミ、クロモリ、カーボンだ。
チタンやスタンジウム、あとは竹なんて素材もあるがこれはマニアック。
それぞれの素材の違いはそれだけで記事一本書けてしまうし、ネットにはその手の記事が氾濫しているので探してみてください。

ちなみに先ほど「A.とにかく安さが正義」で挙げた自転車は両方ともアルミフレームである。
これは単純にアルミのコストが低いからエントリーモデルに使われるのであってけっしてアルミが素材として劣っているということではない。

単純にスピードを出したい・レースで勝ちたいならカーボン一択である。

カーボンはシンプルに車体が軽く、漕いだ力が伝わりやすいからである。

一択、は言いすぎだがレース向けのミドルクラス~ハイエンドモデルになると素材はほぼカーボンだ。
プロの現場はほぼカーボン。
中にはアルミを使っている人もいなくはないが、99パーセントはカーボンフレームである。

ロードにハマる自信がある・レースに興味がある・ヒルクライムをガシガシしてみたい・なによりも軽快な走りを優先させたい、ということであればカーボンフレームを選択するべきだろう。

しかしカーボンは一点にダメージが加わるとバキッと一瞬で壊れてしまうという弱点がある。
扱いに慣れない初心者にとってカーボンは不向き、と言われている理由のひとつだ。
よほど心配な人はもちろんアルミでもいいと思う。

フレームはアルミでもいいが、レースに出るのであればコンポーネントは最低でもシマノの105が搭載されたものにするべきである。

街乗りや軽いポタリング、ロングライド程度であればティアグラ以下でも問題はない。

しかしこれがレースとなれば変わってくる。

まず大前提として、105以上は「レースでの使用を視野に入れて」つくられているコンポーネントだ。
大会によっては「コンポーネントは105以上であること」という規定が設けられていることがある(おそらくブレーキ能力などの安全性も考慮してだと思われる)ので、少しの制約も設けたくない人にとってコンポーネントは105未満にはできない。

もちろんアルテグラ組みの自転車を買ってもいい。
デュラエースは鬼高いからいきなり買う人はいないだろう。
いる? いるか。

あとはレースに出なくても、のちのちのアップグレードなどを考慮すると同じ11速でデュラエースアルテグラと互換性の効く105にしておけば後悔が起きにくい(とか言ってたら近々デュラエース12速化するんですか?)
まあ抜本的にコンポ全体とっかえてしまってもいいわけだが。

で、カーボンフレームでシマノ105で……となれば、それなりの値段になってしまうので、レース出場も視野とかであれば30万円は出しましょうってハナシ。

まーた前置きが長くなった。
カーボンフレーム・105・さらに油圧式ディスクブレーキのモデルで最安値となればこのあたり。

ジャイアント - TCR ADVANCED 2 DISC KOM

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https://www.giant.co.jp/giant21/bike_datail.php?p_id=00000093

302,500円(税込)

出たジャイアント。
フルカーボン・フル105・油圧式ディスクブレーキを30万円程度で買えてしまうコスパの鬼。

ジャイアントは安いというだけではなく様々な大会で実績を残している、レーシング機材としても信頼のおけるメーカーだ。

メリダ - SCULTURA 4000

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https://www.merida.jp/lineup/road_bike/scultura_4000.html

308,000円(税込)

同価格帯で言えばやはりメリダも択。
ジャイアント同様、レーシング機材としての実績も十分すぎるほどに十分。

こちらは基本105だがギアクランクが廉価版。
これひとつで性能がどこまで違うのかは筆者にはわかりません。

ただジオメトリがより実戦向けっぽい感じがする。
「空力性能高いでっせ~」「スピード出しまっせ~」といったギラついた形をしている感じがする。
ただ筆者はそこまで詳しくないのでわかりません。

デザインは圧倒的に優勝。

 

C.ロードにハマれるかどうか不安。失敗のない買い物がしたい。

グラベルロードを買え。

これが言いたくてこの記事を書いたまである。

ロードバイクの楽しみ方に多様性が出てきた」と述べたように、レースに出ること・速く走ること・激坂を踏破することにこだわらない人が増えている。

実際筆者もそう。
気ままにソロか少人数でポタリング~ロングライドすること以外には目的がない(エンデューロイベントには興味があるが)。

そういったニーズにこたえ、業界はここ数年コンフォートモデル(快適性重視)のラインナップに力を入れている。

そういった需要に後押しされ、一気にジャンルとして確立されたのがグラベルロードという自転車である。
「オールロード」「アドベンチャーロード」とも言ったりする。

・ドロップハンドルかつ、舗装路でも悪路でもバランスよく走れる自転車がほしい。
・長距離を走っても疲れない快適性がほしい。
・荷物をたくさん搭載したい。

こういった要望をすべて解決するのがグラベルロードである。

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こんなん(写真はフジのJARI)。

もともとグラベルロードはアメリカ発祥のジャンル。
大自然広がるアメリカは荒野が何百キロも広がっている区間がめずらしくはなく、そういった道を快適に走る目的でつくられたのがグラベルロードだ。

グラベルロードはドロップハンドルであるし、一見は普遍的なロードバイクとは大差がない見た目である。

一番の違いは太いタイヤだ。

一般的なロードバイクが19~28Cくらいであるのに対して、グラベルロードはクリアランスが広く設計されており、28〜47Cのタイヤをつけることができる(もちろんモデルによって異なる)。

太いタイヤは安定性が増し、悪路に強くなる。
また空気圧も低くできるので乗り心地もやわらかい。

スピードはやはり一般的なロードバイクよりは劣る。

悪路走破性は一般的なロードレーサーより断然高いが、さすがにマウンテンバイクのように山を駆け抜けたりはできない。

「速さを犠牲に悪路走破性と長距離快適性を獲得した、ツーリング向きのロードバイクグラベルロードだと思ってもらえたらよい。

「速さを犠牲に」つってもママチャリやクロスバイクに比べるとぜんぜん速い。
あくまでも一般的なロードバイクと比べると劣る、という話である。

とまあそんな器用貧乏さから「こんなの日本だと流行らないよ」と言われていたジャンルだが、そんな声とは裏腹に大流行し地位を確立した。

だって、こんなに「ちょうどいい」自転車はない。

このグラベルロードという自転車、実は初心者にはすごく良いモデルであるように思える。

まず、見ての通りアップライトポジションのため、一般的なロードレーサーより前傾姿勢になる必要がない。

あと、買って無駄になることがないのが大きい。

ロードバイクを買ってすぐに乗らなくなってしまう人の理由として以下のようなものが挙げられると思う。

・乗る機会(時間)がない。
・思ったよりキツいスポーツだった。
・脚力マウント、機材マウントを取られることに辟易した。

大丈夫、これらはグラベルロードで解決だ。

グラベルロードは通勤通学など普段の脚としても利用できる。

もちろん普通のロードバイクもそのようには使えるが、やはり細いタイヤはパンクや段差が怖い。
筆者もごく近場の移動はママチャリを使っており、「今日は走るか」という日だけロードバイクに乗っている。
普段使いするにはマシンとして過剰だし。

グラベルロードはタイヤが太く悪路走破性の高いタイヤを履いているので、街中の段差やゴミ(ガラス片など)、道路の荒れなどを気にしなくてもいい。
段差やゴミや道路の荒れというのは、一般的なロードバイクだとかなり神経を使うのである。
グラベルロードはそれを気にしなくてもよい。
あとはまず間違いなくディスクブレーキなので雨の日も安心。

「乗る機会が作れない」「てかロードバイクって想像以上にキツかったわ」とリタイアする人は、普段使いに用いてしまえばいいのだ。
説明の通り、グラベルロードは普段使いするにももってこいのモデルである。
街乗りに使ってしまえ。

またグラベルロードは、SNS掲示板などで機材マウント、脚力マウントをする行儀の悪い輩からも解放される……かもしれない。

ロードバイクというのは非常に乗り手のマナーが悪いスポーツなのは周知の事実だと思う。

安いブランドをこき下ろしたり安いモデルをこき下ろしたり安いコンポーネントをこき下ろしたりする奴がわんさかいやがるのである。
巡航速度が遅い人をこき下ろしたり坂を登れない人をこき下ろしたりする奴がわんさかいやがるのである。

たしかにロードバイクというのはもともと競技用自転車ではあるが、みんながみんなガチである必要はない。
プロ野球があるのなら草野球があってもいいだろう。
そしてその草野球の中でマウントを取り合わなくてもいいだろう。

とまあ、そういった地獄がロードバイク界隈には存在するのだが、グラベルロードはそういったマウント合戦から外れることができると言えなくもない。

そもそも競技用自転車ではないからだ(最近だとグラベルロード用の大会があったりもするが)。

ツーリング、ロングライド、バイクパッキングといった用途に使われる自転車だから、マウントをとられることはあまりないだろう。
スピードも出ないし、ヒルクライムにも向かないのだから。

まあ「グラベルロードとかいう中途半端なモデル乗ってるやつダセェな」とか言ってくる奴もいるかもしれないが……まあそういうのはキリがないので。

というわけで、のんびり乗れる万能自転車ことグラベルロード。
みんなも買おう。

デメリットは車体が重めになるのと(初心者はそもそもそんなことに気にしないと思うが)、普通のロードバイクに乗っている人とのツーリングがもしかしたら少々行きにくいことだろうか。
やはりスピードは出ないしヒルクライム性能も高くはないので、ペースを合わせられなくなる場面が出てくるかもしれない。

まあ、ゆくゆくロードバイクにハマって「もっとガシガシスピードの出るチャリに乗りてぇ!」「レースに出てぇ!」となれば、その時に105やアルテグラで組んだ高級ロードでも買えばいい。

グラベルロードは、たとえ決戦用バイクを購入しても、普段使い用、グラベル走行用、ロングライド用、バイクパッキング用、ツーリング用のバイクとして、絶対的サブ機として君臨しつづけるはずである。

というわけで最初に安価なグラベルロードを買うというのはなかなか賢い選択であるように思う。

というわけでなるべく安いモデルからのおすすめは以下。

①ジェイミス - RENEGADE A1

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https://www.jamis-japan.com/renegade-a1.html#rea1anopalladium

108,000円(税込)

アドベンチャー系バイクに力を入れているジェイミス。
これはロードバイクシクロクロスとマウンテンバイクのいいとこどりをしたモデル。

グラベルロードで最安値だとこのモデルだろう。

ルイガノ - MULTIWAY700f:id:ayasumi40:20211118164027j:plain

https://www.louisgarneausports.com/multiway700.html

126,500円(税込)

こちらは純粋なグラベルロードというよりは「街乗り」のエッセンスを多く注入したモデル。
フェンダー(泥除け)が最初から搭載されているのはめずらしいが、通勤通学などに使う、天候を選べない人にとってはうれしいだろう。
またペダルがついているのも初心者にはうれしい(ロードバイクのペダルはほとんどの場合別売りなのだ)。
ロードバイク、そんなスポーティに乗り回す自信ないなあ。とりあえず街を快適に走って、たまにサイクリング行けたらいいよ」という人には最適のモデルと言える。


なるべく安いやつ、ということで2台とも機械式ディスクブレーキの紹介となったが、軽いタッチでブレーキを作動させたい人にはやはり油圧式を進めたいところ。


最後に

ウダウダ言ってきたが、いちばん後悔しないのは「自分の予算内で一番見た目が気にいったもの」を選ぶことである。

自転車屋でぱっと見のデザインやロゴが気に入ったものに出会えたら、それを買ってしまえばいい。

性能重視の人・自転車の用途に確固たる目的がある人は別だが、スポーツバイクのメーカーが出しているロードバイクであればまず「ハズレ」を引くことはない。

これから人馬一体となる相棒なのだから「見た目が気に入っている」というのはかなりのモチベーションになる。

リムだろうがディスクだろうがクロモリだろうがカーボンだろうがハイエンドだろうがエントリーモデルだろうがエンデュランスだろうがエアロだろうがグラベルロードだろうが愛着さえもってしまえば関係ないのだ。

まあ最初からタイムトライアル用(こんなの)みたいな尖った性能のやつを選ぶのはやめたほうがいいとは思うけど……。

そんなわけで、素敵なロードバイクライフを送ってください。

踏ん切りがつかない人は鬼頭莫宏先生の『のりりん』を読め。
絶対買いたくなる。筆者はこれを読んでロードバイクを買った。

 

 

鬼頭莫宏『ぼくらの』再考

 

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当記事には『ぼくらの』の軽いネタバレが含まれるため、作品を未読で、なんの情報もなくまっさらな気持ちで読みたいという方は読むのをおひかえください。

 

いまさら『ぼくらの』って、なんでやねん。

と思った人も多いかもしれない。
筆者もそう思う。

この記事の執筆の動機としては、単純に筆者が「『ぼくらの』って作品、あらためてめっちゃいいよな。書いてみるか」と気が向いたから、だけである。

まあちょっと前に漫画の完全版も出たわけですし(って、もう去年の話なのか……)。

さて、この『ぼくらの』という作品は具体的になにがどうよいのか、つらつらと語っていこうと思う。

『ぼくらの』とは

『ぼくらの』は小学館の青年誌『IKKI』で連載されていた、えーと、SF?漫画である。

2007年にアニメ化もした(は? あの時に生まれた子供が今中学2年生ってこと?)。
インターネット老人会のみなさんは「オオオエエアアエエ」という印象的すぎるコーラスではじまる主題歌『アンインストール』を一度は聞いたことがあるだろう。

 


www.youtube.com

 

これ主題歌云々とか抜きにしてめっちゃいい歌詞でめっちゃいいメロディでめっちゃいいアレンジなんよ。

作品のあらすじは……まあこの記事にたどり着いて読んでいる人は『ぼくらの』はすでに漫画かアニメで履修済みかと思うが……一応Wikipediaから引用。

夏休みに自然学校に参加した少年少女15人は、海岸沿いの洞窟でココペリと名乗る謎の男に出会う。子供たちは「自分の作ったゲームをしないか」とココペリに誘われる。
ゲームの内容は、「子供たちが無敵の巨大ロボットを操縦し、地球を襲う巨大な敵を倒して地球を守る」というもの。兄のウシロに止められたカナを除く14人は、ただのコンピュータゲームだと思い、ココペリと契約を結ぶ。
その晩、黒い巨大なロボットと敵が出現する。ロボットの中のコックピットに転送された子供たち15人の前には、ココペリと、コエムシと名乗る口の悪いマスコットが待っていた。これが黒いロボット・ジアースの最初の戦いであった。
戦闘を重ねるにつれ、子供たちはゲームの真の意味を目の当たりにすることになる。

読んだことがない人はこちらのリンクから一話無料で読めるのでどうぞ(めっちゃ読みにくい仕様だけど)。

 

さて、この『ぼくらの』という作品、漫画とアニメでかなり印象の違う作品となっていることはご存知だろうか。

「そんなの知ってるよ。アニメは漫画の連載が終わっていない段階で制作されたから、展開が違うんだろ」

とおっしゃる方もいるかもしれない。
いや、それは間違いないのだが、筆者が言いたいのはそこではない。
作品の風味がけっこう異なるのだ。

漫画・ゲーム・小説のアニメ化には3種類ある(と便宜上定義します)。

・原作に忠実なアニメ化
・原作の再現はそもそも考えられていない、オリジナリティあふれるアニメ化
・原作から大きく逸れてはいないが細かい改変が多く、結果原作とは微妙に異なる風味となった作品

昔はアグレッシヴなアニメ化も多かったが、近年だと原作に忠実なアニメ化が多い印象である(なお筆者は『魔法少女まどかマギカ』あたりでアニメの視聴を熱心にしなくなったのでマジで「印象」だけでしゃべっています。本当にすみません)。
まあ「原作に忠実なアニメ化」は無難ではあるし、評価されるしな。

さて、『ぼくらの』のアニメだが、これは3つめの「原作から大きく逸れてはいないが細かい改変が多く、結果原作とは微妙に異なる風味となった作品」にあたる。

概ねは、漫画と同じである。
ただ細かい部分にかなり改変が多い。
そしてそれがうまく作用していない。

これは監督を務めた森田宏幸がある種の「思想」をもってかなり手を加えたからにほかならない。

森田は 自身のブログで放映期間中に以下のように語っている。

私自身が原作を嫌いで、アニメーション化にあたり、ある意味原作に悪意を持った改変を加えていることを認めます。」
「原作で嫌いなところのひとつは、子供たちの死に行く運命を作者が肯定してしまっているかのように感じられる点です」
「アニメーション版「ぼくらの」の監督は原作が嫌いです。今後、原作にある魅力がアニメーション版で展開されることは期待できません。だから、原作ファンの方々は、今後アニメーション版を見ないでください」
「ナカマ篇など、大幅な改変によって、原作をはっきりと否定していること、ここに明言しておきます」

あたりまえだが物議を醸しに醸した。

この言葉の通り、アニメ版は監督である森田宏幸の「思想」の介入が著しいのである。

改変点について詳しくは割愛するが、「まわりの大人たちや、主人公の子供たちを取り巻く社会の描き方を変え」た点は特に残念だったと思う。

とりあえずこれだけは最初に言っておきたいのだが、『ぼくらの』は圧倒的に漫画のほうがおもしろく、味わい深いということを明言しておく。 

終盤のアニメオリジナル展開はそこまで悪いものではない。
あと主題歌はめっちゃいい。

ただ、アニメ版は原作のいい部分を削ぎ落としてしまいすぎている。

そのため、これから語ることはすべて漫画版準拠だということをご留意いただきたい。

ここがいいよ『ぼくらの』

さて、長過ぎる前置きはこのへんにして。
『ぼくらの』の魅力とはなんぞや。

リアリティのある世界と、異質なジアース

ジアースというのは主人公たちが繰るロボット?の名称である。

ジアースが特徴的なのはその「超常さ」だ。

たとえばエヴァンゲリオンなんかはわりとリアリティがあって、その管理や維持費が至極面倒なことを作中でくりかえしくりかえし描写される(それが『エヴァンゲリオン』という作品の魅力とも言える)。

対してジアースは、とにかく超常的な存在である。

異世界から降ってきたかのようにある日突然現れた機体。
操作に物理的なコントローラーは必要はなくパイロットの意思と自動連動。
地球上の兵器はまったく効かず、核兵器ですらその装甲に傷をつけることは一切できない。素材も未知。
「敵」の攻撃で損傷が出ても次の戦いにまで完全修復する。
戦闘時のみ姿を現し終了後にはどこかに消える。

いわゆる「科学」では説明のできない、まさに「神の産物」とも言えるロボットである。

『ぼくらの』は基本的に登場人物や世界の人たちの考え方がリアルだ。
大胆な歴史改変がされた世界(後述)ではあるものの、ファンタジーではない。
そこにポンと超常的存在のロボットが放りこまれ、人類はいきなり「敵」と戦うことを強いられる。
「敵」には「日本政府」が「リアルな考え」を持って、対応していく。

シン・ゴジラ』だ。
完全に『シン・ゴジラ』とノリが一緒なのだ。

シン・ゴジラ』ではリアリティのある世界で、リアリティのない怪獣に政府が科学をもって挑む様が描かれた。
シン・ゴジラ』はそのチグハグさがおもしろいと評価されたが、『ぼくらの』にも同様の評価の仕方ができると言えよう。

鬼頭莫宏エヴァ破に使徒デザインで関わっているし、当然著作を読んでいるであろう庵野秀明が影響を受けた……ってことはまあないだろうな。

『ぼくらの』以前にこういう作品ってあったかな。
だれかおしえてください。

淡々として救いのない展開

鬼頭莫宏といえば「登場人物がぐちゃぐちゃ死ぬ漫画を描いている人」という印象をもっている人も多いかもしれない。

どっこい、実際に人間がバンバン死ぬのは『なるたる』と『ぼくらの』だけである。
とは言ってもこの二作が代表作なのでこういったイメージになるのはしかたがないかもしれない。

余談だが、筆者は鬼頭莫宏作のほのぼの日常系自転車漫画(ガチです)の『のりりん』を読んでいるときは「いつかこのヒロインも事故に遭って、脚を切断することになって、『すまんち……もう自転車乗れなくなってしまったけん』なんて言い出すんだろうな、きっと」などと考えていた。

この漫画、とにかくまあ一切の慈悲がない。

人は死ぬし、助からない。
淡々と死ぬ。

死に際は美しかったり、醜かったり、どちらともとれなかったりする。

その描写には「死が肯定されている」感じは一切しないけどな、と筆者は思う。

本当の意味で「勧善懲悪ではない」

「単純な勧善懲悪モノではない点がいいよね」と評価される作品でも、どうしても主人公の敵サイドはある程度悪役っぽく描かれる。
ゴールデンカムイ』の鶴見中尉だって、わりと悪役のフォーマットにのっとって描かれているでしょう。

その点『ぼくらの』はガチのマジで完全な「非・勧善懲悪」である。
あんまり説明するとネタバレになるので一応避けておく。

緻密な"人間"描写

パイロットである少年少女15人がどういった人間なのか、どういった環境に身をおいているのか、どういった気持ちで戦いに臨むのか、克明に掘り下げる、掘り下げまくる。

パイロットに限らず、周辺の大人たちの心情なども掘り下げまくる。

『ぼくらの』はあらすじだけ見るとよくあるSFロボットものだが、バトル漫画ではない。
というか、戦闘にまったく重きが置かれない。

ちょっとしたネタバレになるが、戦闘シーンがまるまるカットされる回なんかもある(かなりしびれた)。
なんなら戦わずして勝利する回もある(かなりしびれた)。

『ぼくらの』はSF、ロボットモノをフォーマットに使用しただけの人間ドラマなのだ、と言っても過言ではないだろう。

『ぼくらの』という作品におけるスパイス

……と、ここまで挙げた点のみで作品が構築されていた場合、『ぼくらの』は「良作」止まりだったかもしれない。

『ぼくらの』を「奇形の傑作」たらしめている点、それは大筋とは関係のない、凝られた世界観設定である。

アニメ版の残念なポイントは、この描写を削ぎ落としたことだ。
よって筆者としては、アニメ版は原作を差し置いてまであえて観る価値のあるものではないと思う。
まあわかりやすさを追求したのかもしれないが。

さて、以下にどんな「スパイス」が盛り込まれているのか紹介していく。

日乃レポート

『ぼくらの』は2036年くらいの近未来の日本が舞台である。

正直、これは必須の要素ではない。
別に現代を舞台にしたって問題はなかったはずだ。

しかしこの近未来設定が作品にいい味わいを与えているのである。

そしてこれ、ただの近未来日本ではない。
クーデターによって現実の政府機構とはまったく違う姿に変貌した日本、が舞台なのである。

『ぼくらの』は実は「歴史改変モノ」の側面も持っているのだ。

『ぼくらの』の世界は20世紀までは現実世界とほとんど同じ歴史を辿ったのだが、21世紀初頭に「日乃レポート」が実行されたことによって大きく道を変えた。

ひ、ひのれぽーと?
読者にすら「それなんだっけ?」と思った方もいると思う。

説明しよう、「日乃レポート」とはーー
本編より25年前に実行されたクーデター計画である。

鬼頭莫宏の旧作『なるたる』にも極秘計画として登場する。
出版社を超えての設定共有である。
なるたる』ではあくまでも構想が紹介される程度のものだったが、『ぼくらの』ではそれが実行された世界の話となっている(リアルタイムで読んだファンは感動しただろうな)。

日乃レポートを実行したのは、政府と自衛隊の一部。
このクーデターが成功すると、日本は日米安保条約を破棄し、在日・極東米軍と交戦し、アメリカを追い出し、属国状態を脱却して自立。
あと改憲して自衛隊国防軍へと発展的解消。
そんでもって外交では親・中国の路線をとり、中国との間に日中安保条約が結ばれる。
アメリカは完全に敵国。

つまり世界は緊張していて、かなりキナくさい状態にあるのだ。
そこで日本政府はジアースの力を軍事的に利用しようとする。
各国もジアースの存在によって揺さぶられる。

この世界観設定があることで、『ぼくらの』は「ただ、少年少女が戦って世界を救うだけの話」に収まらないのである。

天津条約

「天津条約」とは、『ぼくらの』世界において中国の天津で締結された国際条約である。

これに批准した国は「無人兵器の所持・運用を規制する」というもの(おそらく全世界の国が批准済み)。
作中に登場する戦闘機などの兵器は(一部を除いて)すべて有人兵器である。

これもまたいい設定なんだワ。
終盤でこの条約が持ち出され、作品の主題とも言える「自らの手で命を奪うことの意義」「命の重さ」が語られるのである。

独自の素粒子

これも『なるたる』に登場した設定である。
どういったものかと言うと、

・この世は三次元のマトリックス状に配置された、移動しない素粒子で均質に満たされている。
・その素粒子の中を「物質」が移動するのではなく「情報」が移動している。
・「情報」の「位置」を瞬時に書き換えることによってテレポーテーションが可能。
・「情報」は容易に複製ができるが、「魂」だけは複製ができない。

……なに言ってるのかわかりませんよね、すみません。
詳しくは該当の巻を読んでくれ、としか言えない。

これまたジアースの超常的現象を説明する上でかなりの「それっぽさ」を演出している。
ていうかこの素粒子論って本当なんじゃ、みたいなそれっぽさすごいな。
そして「魂」は複製できないってのが、またいい。

最後に

さらっと書いて短く終わろうと思ったら6000字近くになっていた。

『ぼくらの』を読んだことのない人は興味をもっていただけたら、
『ぼくらの』を読んだことのある人は「そうそう、いい作品だったよなあ」としみじみしていただけたら、幸いである。

そしてアニメ版しか観たことがないって人は絶対に漫画版を読んでほしい。
本当に作品の奥行きが違う別物だから。
あとコエムシの印象がガラッと変わるから。

陰鬱なイメージが強いけど、漫画版はむしろ爽快感のほうが強いまであるから。
まあそれと同時にアニメより陰鬱さが強いですが。

『ぼくらの』が嫌いではない監督の手での再アニメ化、待ってます。
なるたる』の再アニメ化も、待ってます。
どっちも最近完全版出たし、再ブレイクするとは思うんだけどなあ……と思ったけど『シャーマンキング』も『封神演義』も奮ってませんね。

そして鬼頭莫宏先生が回復され『双子の帝國』が復活しますよう……。

 

 

吹奏楽の編曲作品について考える

こちらの記事で書ききれなかったことを余談的に記す。
 
吹奏楽界隈において「往年の管弦楽クラシック曲からの編曲モノが至高。吹奏楽用に書かれたオリジナルなど邪道」という考えの人間はいまだに一定数いる。
 
ほんの20~30年ほど前まではこのような考えの人間が大多数を占めたらしく、吹奏楽コンクールにおいて邦人の現代曲などやろうものなら「邪道」と叩かれることもあったらしい。
邦人オリジナル作品があふれる現代から考えると信じられない話だ。
 
徐々に減ってきてはいるが、筆者が現役だった10年ほど前にはそういった考えのジジイは多くいたように思う。
 
筆者はこのようなジジイに対してはじゃあ管弦楽やれよ(聴けよ)以外の感情がない。
 
冒頭にリンクを貼った記事でも書いたように、
①ヴァイオリンの高音域をまかなえる楽器は、吹奏楽にはない、と言っても過言ではないから
吹奏楽管弦楽と同じことをしても、管弦楽には勝てなから
である(詳しくは該当記事を読んでほしい)。
 
クラシック至上主義という思想は、結構。
それはそれで尊重する。
だがクラシック至上主義であれば管弦楽をたしなむべきであり、吹奏楽にそれを強いるべきではない。
 
なんだろう、クラシック編曲が大好きジジイは。どこからくる思想なのだろう。
本当は管弦楽をやりたくてもやれてないコンプレックスだろうか? 
 
筆者は、管弦楽から吹奏楽に「単純にトランスクリプションされた編曲モノ」には、「芸術的」な意義は"基本的には"ないと思っている。
 
圧倒的表現力と倍音をもつ弦楽器を欠いて、実質的に音域を狭めて、調整まで管楽器用に変えてまで、わざわざ吹奏楽編成に編曲する意義とはなんだろう。
 
もちろん吹奏楽のオリジナル曲が少なかった黎明期においては、その存在意義はあっただろう。
 
ただ、吹奏楽用に書きおろされた楽曲が多数存在する現在、管弦楽からの編曲に「固執」するのはもはや不健全と言える。
 
しかし、私は管弦楽からの編曲が完全に絶滅すべきとは思っていない。
 
また、単純なトランスクリプションではなく、「よし、吹奏楽オーケストレーションで、この曲を効果的に響かせてやるぞ。あらたな側面を見せてやるぞ」といった意欲をもって書かれ、それが実践できていれば、管弦楽曲からの編曲でも、意義があると思う。
 
また、少なくとも「教育的」な意義はある。
 
日本において管弦楽部を持つ中学校・高等学校は少数である。
管弦楽部は関東近郊ではそれなりに盛んで設置している高校もあるが、全国的に見るとかなりマイナーだ。
対して吹奏楽部は設置されていない中高はないのではないかというくらい非常にメジャーである。
 
吹奏楽という媒体でしか器楽合奏の体験ができない子供たちにクラシックを触れさせる・学ばせる」という点では、管弦楽クラシック曲からの吹奏楽編曲は重要な役割を持っていると言えるだろう。
 
あとは、吹奏楽のコンサートにおいてもプログラムのひとつとしてはクラシック編曲はあってもいいわけで。
 
なにが言いたいかというと、とにかくオケ編曲に「固執」するのは「不健全」だという話である。
 
※※※※※※※※※ここからべつの話※※※※※※※※※
 
管弦楽曲以外からの編曲にも触れてみたいと思う。
 
実は吹奏楽では、ピアノ曲やオルガン曲などからの編曲も盛んに行われている。
※これは吹奏楽に限ったことではなく、『展覧会の絵』『クープランの墓』など、ピアノ曲から管弦楽編成への編曲が行われている例は古くからある。
※めずらしいところでは、シンセサイザーと打楽器を用いたバレエ音楽である三善晃の『竹取物語』が天野正道によって吹奏楽編曲されている。ちなみに原曲よりはるかに演奏機会が多い。
 
ゴッソリと楽器編成が変わるわけだし、単純なトランスクリプションではない。
吹奏楽という編成であらたな響きを与えられており、芸術的な意義や意味も見いだすことができる……かなとは筆者は思うが、ここは意見のわかれるところか。
 
最後に「管弦楽曲以外からの吹奏楽編曲作品」の例を以下に挙げておく。
 

吹奏楽は"基本的に"管弦楽に勝てない

音楽のことやら小説のことやら映画のことやら自転車のことやら雑多に書いているこのブログで、一番アクセス数の高い記事はこれである。

ayasumi.hatenadiary.jp

やはりタイトルがセンセーショナルだからだろうか。
憤慨しながらアクセスした人も多いに違いない。
そしてこの記事タイトルも相変わらずのノリである。

当記事は『吹奏楽部は、教育に悪い』の続編となっている。

そろそろ「おめぇ、吹奏楽に親でも殺されたんか?」という声も聞こえてきそうだ。
しかしそれだけ筆者は日本の吹奏楽吹奏楽部にまつわるあれこれがどうにかならんものかと思っている。

今回は管弦楽と比較しながら、吹奏楽という編成の機能について話をしようと思う。

 

目次

 

吹奏楽民は視野も知見も狭い

さて、吹奏楽が好きなみなさん。
あなたたちは、吹奏楽のどこが好きなのか、説明できるだろうか。

おそらく「どこが」好きなのか「具体的に」かつ即座に説明できる人はほとんどいないと思う。
回答できる人も「みんなでひとつものをつくりあげるやりがい」だとか「部活が楽しい」などで、吹奏楽という形態のもつ音楽的な魅力については言及できない人がほとんどだと思う。

言い切ってしまうが、吹奏楽が好き」と言う人の大多数は、学生時代の思い出による補正でしかない

まあ、それでもいい。
それでもいいのかもしれないが、
少しは「学生時代の部活での思い出と、その延長」としての吹奏楽ではなく、「音楽」「芸術」として吹奏楽のことを考えてみないか?

この記事、「管弦楽吹奏楽の違いなんて気にしたことないけど、部活の思い出補正で吹奏楽が好き」という吹奏楽好きにはもちろん、「やっぱ管弦楽が至高でしょ。吹奏楽とか下位互換に過ぎない」と思っている管弦楽好きにも読んでいただきたい。

 

『風紋』をふたつの編成で聴き比べてみる

吹奏楽は"基本的"に管弦楽に勝てないというタイトルに、吹奏楽ファンの方は憤慨しているかもしれない。

怒る前にまず、冷静に考えてほしい。もしも管弦楽より吹奏楽が優れているのであれば、大河ドラマのテーマ曲は吹奏楽編成だっていいはずだ。
しかしみなさん知っての通り、大河ドラマのテーマ曲は必ず管弦楽編成で書かれ、NHK交響楽団が演奏する。

映画やゲームの劇伴だってだいたいが管弦楽だ。
わざわざ吹奏楽編成を意識してつくられる曲もないことはないが希少だろう。

理由は簡単で、吹奏楽管弦楽と「同じこと」をやっても勝てないからである。
同じことをやっても、最大限がんばっても、下位互換にしかならない。

ここで往年の吹奏楽ファンなら知らない人はいないであろう『風紋』を聴いていただきたい。

これ、保科洋氏自らが書いた管弦楽版があるのを知っているだろうか。


吹奏楽


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管弦楽


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どちらがいいだろう。

圧倒的に管弦楽版じゃないか?

本当に吹奏楽版が優れているのであれば、保科氏も後からわざわざ管弦楽版なんて書かなかったのではないだろうか。
それは言い過ぎか? それでも『風紋』がわざわざ管弦楽版にトランスクリプションされたのは、「吹奏楽ならでは」の楽曲になりきれていなかったからだと筆者は思う。
※これは保科氏が吹奏楽向けの曲を書き切れていないという批判ではない。『風紋』は全日本吹奏楽連盟の委嘱で吹奏楽コンクール課題曲として作曲されたものであり、中高生も演奏することを考えるとある程度平易かつ親しみやすいメロディである必要があった。

いや『風紋』は吹奏楽版のほうがいいだろ、という人も、まあ最後まで読んでいってほしい。

 

なぜ吹奏楽は"基本的"に管弦楽に勝てないのか。

吹奏楽管弦楽に『負けている』点は、ヴァイオリン属(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)という強大な存在を欠いていることである。

吹奏楽にはコントラバス――非常に稀にチェロが参加することもあるが――をのぞき、弦楽器が存在しない。

ではヴァイオリン属の有無でなにがそこまで変わってくるのか。

①表現力

あたりまえだが楽器の種類が多ければ多いほど、楽曲の表現力、楽団としての表現力は高まる。
管弦楽クラリネットやトランペットやフルートといった管楽器群も擁する。
つまり、吹奏楽で出せる音は、管弦楽でも出せるのである。

吹奏楽にはサックスとユーフォニアムというアイデンティティがある!」と言う方もいるかもしれないが、それだけでヴァイオリン属の圧倒的な音色と表現力を凌駕するほどの力はあるだろうか。
それに、管弦楽でも近現代曲ではサックスやユーフォニアムが組みこまれることだってある。

もちろん楽器の種類が多ければ多いほど優れた音楽になるわけではない。
少人数編成の室内楽は、それはそれとして素敵な形態であるわけだし。

ただ、大規模な器楽合奏体として比較すると、管弦楽に軍配が上がるのはたしかだろう。

倍音

ヴァイオリン属倍音は、管楽器のそれとは明らかに違う。
弦楽器の倍音は芳醇で荘厳な印象を与えてくれる。

ちなみに吹奏楽において、芳醇な響きのサウンドを奏でるバンドを「まるでオーケストラ(管弦楽)のようなサウンド」と誉めたりするが、この言葉がある時点で……という感じもする。

③高音域の問題

ヴァイオリンが奏でる高音域をカバーできるのは、管楽器ではピッコロくらいのものである。
これはかなり手痛く、吹奏楽最大の弱点ではないかと思う。

管弦楽おける主役はヴァイオリン。
対して吹奏楽ではクラリネット(ソプラノクラリネット)が主役の役割をもつ。

クラリネットはそこそこに音域が広く、音色の汎用性が高いため、吹奏楽では主旋律からハーモニーまで担う、管弦楽におけるヴァイオリンのような楽器である。

そんなクラリネットが得意な音域はヴィオラに近い。
ヴァイオリンほど高音域を出すことには向いていないのだ。
向いていないというだけで出ることは出るが、あくまでも飛び道具的に使われるもの。

主旋律もハーモニーも担う、一番人口の多い主役級の楽器が、高音域を出せないのだ。

「でもソプラニーノクラリネットがあるじゃん」「ピッコロで高音域もまかなえるじゃん」と思ったあなた、ソプラニーノクラリネットとピッコロという楽器が持つ音色の強すぎるパワーを考えてみてほしい。
吹奏楽においても専門の奏者が常設されていない。
言い方は悪いが、どちらも飛び道具的に使用される楽器だ。

吹奏楽は特に高音域の弱奏に向かない。
高音域の弱奏ができるのはフルートくらいのもの。
ヴァイオリンは繊細な操作が可能であるため高音域の弱奏も可能である。しかも大群で。

 

吹奏楽という編成の機能

では吹奏楽アイデンティティとはなにか。
それはサックス群やユーフォニアムの存在ではない。

管弦楽にはない吹奏楽アイデンティティは、ある種の「いなたさ」「下品さ」であると思う。

……怒られるか?

ここで先ほどの『風紋』を例にとればわかると思う。
圧倒的に管弦楽版のほうが芳醇で豊かで上品な演奏ではないだろうか。
吹奏楽版は、どうしてもいなたい印象がぬぐえない。

逆に、吹奏楽はここにこだわるべきではないかと思っている。
この「いなたさ」を活かしてこそだと思う。

では、なぜ吹奏楽はいなたくなるのか。

ヴァイオリン属という上品な音色の楽器が存在しないから……でもあるのだが(これは大いにあるのだが)、理由はほかにもいくつかある。

管弦楽吹奏楽において決定的に違う点がひとつある。

アインザッツやリリースへのこだわりの強さである。

吹奏楽はとにかくアインザッツ(発音の出だし)をそろえることにこだわる。
そしてリリース(音の終わり)もきっちりそろえることを求められる。
もちろん管弦楽だってそうなのだが、吹奏楽ではそれが顕著に浮かび上がる。

管楽器という楽器の特性上、アタック感が非常に強いからだ。
アインザッツとリリースがそろわないとどうしてもバラけた印象になる。

対して弓で撥弦する弦楽器はやさしいアタックになる。リリースもそう。
ぬるっと入り、ぬるっと終わるのである(もちろん一概に毎度そうなっているわけではないのだが、比較しての話)。

吹奏楽はこのアタック感をフルに活かすべきなのではないだろうか。

「勇猛なサウンド
「攻撃的なサウンド
「重厚なサウンド
をつくる点においては、管弦楽より吹奏楽に分があると筆者は思う。

先ほど吹奏楽の弱点として高音域の不足を挙げたが、逆に管弦楽より管楽器奏者が多い分、中低音域が非常に充実していると言える(管楽器の多くは中音域が得意)。

また、管楽器のみの演奏体である吹奏楽は(弦楽器に遠慮しなくていいので)爆音を出しやすい。
ここで言う「爆音」は「迫力のある大きい音」のことを指す。
※もちろん音量が大きければ大きいほどいいというわけではない。昨今の吹奏楽コンクールにおける爆音信仰は見直されるべきだと思う。

この爆音によって、管弦楽より「勇猛なサウンド」「攻撃的なサウンド」「重厚なサウンド」がつくりやすいのはたしかである。

吹奏楽はこのサウンドの特徴をフルに活かしていくべきではないか。
管弦楽がお上品路線を得意とするのならば、吹奏楽はこのいなたさ、ともすれば下品とも言われるような表現で勝負するべきではないか。

普遍的な調性音楽の曲であれば管弦楽でやればいい。吹奏楽である絶対的必要性はない。

単純に「綺麗な旋律」であれば、ヴァイオリンが一番映える。

と筆者は思う。

しつこいようだが『風紋』をもう一度聴いてほしい。
テーマの旋律など、ヴァイオリンの圧勝だろう。

つけ麺は、もとはラーメンから派生した食べ物である。
最初は余った麺をスープにつけて食べられていたまかないだったものが商品化され、麺を冷やして締めたり、汁の濃度を強めたり、太麺が基本になるなど、ラーメンとは異なる道へ独自に発展した。

吹奏楽もそう(?)。
管弦楽から生まれてひとつのジャンルとなった今、独自の発展をするべきなのである。
※正確には軍楽隊がルーツではあるが、今日の発展した大規模器楽合奏体としては管弦楽からの影響が強いだろう。

巷では単にスープと麺を分離させただけのものをつけ麺と言い張って出す店もあるが、それはもはや「こんなんラーメンで食った方が美味いじゃん」である。

吹奏楽もそう(?)。
「この曲・この表現だったら管弦楽の方が効果的じゃん」と言わせてはいけない。
吹奏楽吹奏楽という編成の機能を活かすべきで、「弦抜きオケ」であってはならないのだ。

吹奏楽は、管弦楽とは在り方を明確に差別化するべきなのである。
そして、それを作曲家、指揮者、指導者はもちろん、奏者と聴衆もそれを意識するべきなのである。

こと日本においては、それがほとんど意識されていないと言っても過言ではない。

  

吹奏楽が得意とする分野の考察

吹奏楽管弦楽と差別化を図り、吹奏楽という編成の機能をふんだんに活かすべきである」と述べたが、ではそれを体現できる曲はどういったものか、具体的に述べたい。

①マーチ、ファンファーレ


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マーチやファンファーレはやはり重厚な金管楽器群がある吹奏楽がとても機能する。

もちろんコンサートマーチであれば管弦楽でやれないことはない。『星条旗よ永遠なれ』は管弦楽版が存在する。

②民族的・土俗的な音楽


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たとえば和風の曲は、吹奏楽のいなたい感じはマッチすると思う。
管弦楽でも昔から和風な曲は存在するが、よりいなたい感じを表現したい場合は吹奏楽に分があるだろう。

大栗裕の『大阪俗謡による幻想曲』や『神話』は管弦楽版と吹奏楽版がそれぞれ存在するが、個人的にはよりねっとりした表現のできる吹奏楽版の方が好きである。管弦楽版もそれはそれでおもしろいオーケストレーションなので聴いたことのない人は聴いてみてほしい。

③ジャズ、ラテン音楽


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上記映像は故・真島俊夫氏のオリジナル楽曲。

黒人音楽やラテン音楽調の曲、ビッグバンドやジャズバンドからのアレンジなどはやはり吹奏楽がマッチするだろう。

ただ念を押して言いたいのは「管弦楽はポップスに向かない」という言説は誤りだということだ。
『ウエストサイドストーリー』だってオリジナルは管弦楽(に豊富なサックス群を加えた)編成である。

吹奏楽はどんなジャンルにも柔軟に対応し、管弦楽はそういった小回りが利かない」
「ポップスが演奏できるのは吹奏楽の利点。管弦楽ではこれができない」
と言われたりするが、それは日本だけの風潮である。実際、海外にはポップス・オーケストラが存在するわけだし。

④現代音楽

ここで言う現代音楽は無調で変拍子が多用される実験的な楽曲、「狭義の現代音楽」を指す。
ピンとこない吹奏楽民は「課題曲Vみたいな曲」だと思えばいい。

先ほど吹奏楽は「強いアタック感」で「攻撃的なサウンド」が形成できるという話をしたが、刺激的な現代音楽は非常にマッチすると思う。中低音に厚みがある点も混沌さを演出する一助になるだろう。

具体的にこれを実践している作家として田村文生を挙げたい。


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巷にある多くの吹奏楽曲は「この曲、ヴァイオリンで旋律を奏でているのが想像つくな」と思えてしまう。
みなさんも実際に適当な吹奏楽曲を選んで頭の中でその曲を管弦楽編成で鳴らせるか想像してみてほしい。だいたいできると思う。

しかし例に挙げた田村文生の作品は、管弦楽編成にトランスクリプションされるのは想像ができない。
真の意味で「吹奏楽という編成をフルに活かし、管弦楽では再現できない」ことをやっていると思う。

余談だが、吹奏楽分野の現代音楽曲はもっと評価がされてもいいのでは、と思う。
残念ながら、一般的な管弦楽マニアは吹奏楽など眼中にない。
現代音楽という分野はそれなりに愛好家が多いのだが、どうしても彼らは管弦楽以外に食指を伸ばさない印象だ。

重厚で攻撃的なサウンドで奏でられる混沌とした現代音楽の演奏機会が増え、それをたくさんの人が認識すれば、吹奏楽の芸術的評価が向上するのではないかと思っている。

管弦楽の現代音楽分野で著名な新垣隆西村朗三善晃あたりが入り口にならないものだろうか。
彼らが吹奏楽編成に向けて書いた曲は、どれもメインフィールドである管弦楽とは意識的に差別化された「吹奏楽ならでは」のサウンドが構築されているので、管弦楽マニアの人もぜひ聴いてみてほしいものだ。

 


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吹奏楽市場という呪縛

筆者は高度な音楽教育を受けてもいないし、音楽でなにかしらの成功を収めているわけではない。
そんな人間がこんなことを言うのは非常に不躾で無礼かもしれないのだが、「吹奏楽ならでは」を念頭に置かれて作られた曲は、こと邦人作品においては少ないと思う。

具体的に名前を挙げてしまうが、長生淳氏の曲などは管弦楽編成のほうがいいのではと思えてしまう。非常に邪推だがこれについてはご本人も自覚があるのではなかろうか。

ではなぜ「これべつに管弦楽でもいいんじゃね」と思われるような吹奏楽曲が氾濫しているのか。

なぜ「管弦楽ともっと差別化しよう」という動きが見られないのか。

これは日本における吹奏楽市場の問題であると思われる。

①団体数

まず大前提として、日本において管弦楽部を持つ中学校、高等学校はかなり少ない。
これは管楽器のほうが弦楽器より安価かつ、演奏技術を習得しやすいことに起因している。
あらゆる面で管弦楽は難しく、吹奏楽は簡単という話だ。

管弦楽部は関東近郊ではそれなりに盛んで設置している高校も多いが、全国的に見るとかなりマイナーである。
地方の吹奏楽民は「管弦楽部が設置されている学校がある」ということを知らないだろう。実際筆者も知らなかったし、存在を知ったときは驚いた。

吹奏楽部は規模の大小はあれど、全国どの中学、高校、大学にも必ずといっていいほど存在するし(大学になると地方でも管弦楽部もわりと多いが)、小学校でも設置されていることが多い(小学校においては金管楽器と打楽器のみの編成が多く見られる)。
また部活動に限らず、吹奏楽は市民団体の数も管弦楽より多い。

長々と書いたが、単純に管弦楽より吹奏楽のほうが人口が多いということだ。

作曲家というのは自身の曲が演奏されてナンボである。
楽譜が売れなければメシが食えない。

であれば、管弦楽より演奏される機会の多い吹奏楽をメインフィールドとすることは当然の帰結と言える。
日本においては管弦楽より吹奏楽の方が盛んであり、作曲家としては吹奏楽編成の曲を書いた方がより演奏機会に恵まれるというわけである。

②コンクール

全日本吹奏楽コンクールの存在は、強力な市場をつくりあげている一因として無視することができない。
中学校、高等学校、大学、職場・一般の4つの部門を合わせると、全国で10000団体以上が参加するという巨大なイベントである。
管弦楽においては、これほどまでに大規模なコンクールは存在しない。

吹奏楽コンクールは、競技的な――ここでは揶揄の意味もこめて「競技的」という言葉を使用する――側面のほか、コンクールで演奏する曲を作曲家に委嘱する学校・市民団体もあり、作曲家の新曲発表会の側面がある。

委嘱曲はだいたい翌年には楽譜会社より出版され、みなこぞってそれを演奏したがる。
全国大会で初演された曲が翌年以降に流行するということもめずらしくはない。

作曲家にとって、吹奏楽コンクールというのは美味しいイベントのひとつなのだ。

言い方は下品になったが、筆者はそれを否定するつもりはない。
吹奏楽コンクールという媒体によって曲の知名度が広まるのはよろこばしいことと言えるわけで。

以上の要素から導き出されること

前提:日本における吹奏楽の人口は管弦楽に比べてはるかに多い。

そのため:作曲家にとって作品が演奏される機会は吹奏楽のほうが多い。

それでいて:吹奏楽は日本において部活動のツールとしての側面のみ異常に発達しており、音楽的・芸術的な面はないがしろにされがち(管弦楽好きにはその面しか着目されておらず、吹奏楽が見下される要因のひとつにもなっている)。

そのため:「部活動としての吹奏楽」にしか関心のない人間しか育たない(リテラシーの不足)。

つまり:学生と、その延長でやっているライトユーザーが大半を占める日本の吹奏楽市場では、どうしても「メロディアスでドラマチックでわかりやすい調性音楽」の需要が高くなる。

→こういった流れで、日本では「これべつに管弦楽でもいんじゃね」という曲が氾濫してしまうのではないか。

……あくまでも筆者の推察による持論なのであしからず。
近からず遠からずであるような気はしているが。

またこれは邦人作曲家への批判ではない。
あくまでも彼らは市場の需要に応えているだけである。

その点、海外は吹奏楽という編成のアイデンティティがフルに活かされている曲がとても多いように思う。
これは日本と比べて管弦楽がより活発だから、差別化について意識的であり貪欲であるということの証左ではなかろうか。

ギリングハム、アッペルモント、ジョージ、マッキーなどなど、調性音楽であっても、しっかり「吹奏楽ならでは」という響きだ。
彼らの曲だって管弦楽へのトランスクリプションができないこともないだろうが、吹奏楽ならではの厚みや攻撃性を活かしているように思える。

日本では高昌師なども挙げられるだろうか。

 


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※2022/9/1追記
高昌師はもともと「現代音楽」の項で田村文生とともに挙げていたがこちらに移動したことを記録しておく。
貼りつけている『マインドスケープ』については現代音楽的な要素はあるが全編そうかと言われるとそうでもないからである。それは初稿の段階で思っていたがまあいいかと置いておいてしまった筆者の至らなさである。『エッセイ』なんかはわりと全編現代音楽チックなのだが権利的に問題なさそうな動画がYouTubeにはなかった。
ただ『マインドスケープ』はファンファーレ的なアプローチが多用されているし、ラストなんかは吹奏楽特有の厚みならではの響きだと思うし、それ(吹奏楽特有の楽曲ではないか、ということ)については考えを変えてはいない。
黙って取っ払うのも不誠実だしこちらで残しておくことにした。

最後に

筆者は先ほど述べた「ライトユーザー」を否定するつもりはまったくない。

吹奏楽をやる人間が全員高い技術と意識を持つべきとは言わない。
スポーツや格闘ゲームと同じように、エンジョイ勢がいたっていい。と言うよりはエンジョイ勢が多い方に越したことはない(本気でやっている人間やガチのオタクしかいない界隈は廃れてしまう)。

「混沌とした現代音楽」「ファンファーレ的なアプローチが多用される楽曲」「攻撃的な、ともすれば下品に聞こえる音楽」にシフトしていくべき、というのが恣意的な意見であることは自覚している。
現在の日本の吹奏楽市場を考えると現代音楽をメインストリームとするのは現実的ではない。

それに筆者は「管弦楽に簡単にトランスクリプションできるような吹奏楽曲は駄作だから絶滅しろ」と主張するつもりはない。

初心者の入口として平易な曲は存在しなければならないわけだし。

コンサートのプログラムとしてもそういった曲は必要なわけだし。

ただ、少しでも「吹奏楽アイデンティティを意識する人」が増えてほしいと思う。

吹奏楽が好き!」と言うのであれば、部活の思い出を語るのではなく、音楽的な要素を語ることのできる人間が少しでも多く増えてほしい。

少しでも多くの吹奏楽民が「吹奏楽という編成のアイデンティティ」を意識するだけで、日本で作曲される・演奏される楽曲の在り方も変わってくるかもしれない。

筆者は管弦楽マニアに対しても、吹奏楽の編成としての魅力は存分にあるのだということを知ってほしいと思っている。

それを知ってもらうにはまず、吹奏楽民のリテラシー向上からだ。

【了】

 

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パーカッションがどういったパートなのかよく知らない人へ ~邦楽ポップスにおけるパーカッション~

パーカッションというパート、みなさまご存知だろうか。

もしかしたらマジで知らない人いるかもしれない。
あるいは知っているけどなにをやっているのかわからないという人が大多数だと思う。

パーカッションを知らない人には知ってもらうため、
ふんわりとしか知らない人にはガッチリと知ってもらうため、
4200字ほどしたためたのでよろしゅう。

 


パーカッションとは

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わたくしのセット。

パーカッションとは、コンガ、ボンゴ、タンバリン、シェーカー、ウィンドチャイムなど様々な打楽器を演奏するパートである。場合によってはマリンバやグロッケンなどの鍵盤打楽器やティンパニなども演奏する。
ドラムのリズムを補強したり曲に装飾をつけたりと役割は様々。

で、このパーカッションというパートだが、
「ああ、なんかバックバンドでチャカチャカしてる人ね」くらいの認識の人が大多数だと思う。

バンドといえば「ギター、ベース、ドラム。場合によってキーボード」といった編成を思い浮かべる人がほとんどだろう。

パーカッションが参加しているバンドは、まあ少ない。
ギターやキーボードに比べると起用率は断然少ない。
それこそソロシンガーのバックバンドなどでしか見かけないだろう。
「ロックバンド」の「正式メンバー」としてパーカッションパートが在籍しているバンドはサザンオールスターズくらいではないだろうか(スカパラとかは「ロックバンド」のくくりではないし)。
ぼくもそうだったけど、サザンオールスターズ知ってるのにパーカッションのメンバーがいることを知らない人多いよね。

そしてここ20年はマジのマジで楽曲にパーカッションを取り入れることが減少している、と思う。
ウィンドチャイムが入っていたりタンバリンが入っていたりということはあるが、がっつりコンガを入れる、みたいなアプローチが本当に減った。
ここ最近のロックバンドでパーカッションを本格的に取り入れているのはOfficial髭男dismくらいのものだろう(ソロシンガーならけっこういるがロックバンドで、となるといない。いつの時代でもそうか)。

メジャーの世界でもそんな感じなのだから、これがインディーとなればもうマジで壊滅的に存在しない。
パーカッションを入れているバンドもいないし、パーカッショニストもマジでおらん。
ギター>>>>>>>>>>>>>>>>>ベース>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ドラム>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>キーボード>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>パーカッション
といった具合。


パーカッションには需要がなければ供給もない。
つまりだれも困っていない。
じゃあいっか。

待て。

パーカッション、入れろ。

ギターロックのオルタナバンドとかは、まあいいけど、めっちゃポップなバンドなのにパーカッションが入っていないのは違和感すら覚えますよ。入れろや。
メタルなのにギター入ってないバンドとか、いないでしょ?(見てみたいとは思うが)

単純にみんな「パーカッションを入れよう」という発想に至らないのであるよな。
なぜならみんなシンプルにパーカッションのことをよく知らないから。

ギターやベースやキーボードは自分が弾けなくても、なんとなくどんなアプローチをするのか想像がつくだろう。
しかしパーカッションはまず楽器が多すぎるし、どんな曲にどんなアプローチをしているのかみなさんまったく知らないと思う。

じゃあ知りましょうよってことで、パーカッションが印象的な邦楽曲を年代順に挙げてみる。
個人的なアレなので「なんで●●が入っていないんだ!」みたいなクレームは勘弁してください。ていうかコメント欄でおしえてください。

 

①くすりをたくさん(大貫妙子

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くすりをたくさん

くすりをたくさん

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とても1978年の曲とは思えない。アバンギャルドでキャッチー。

パンは右にティンバレス(前半はカウベルが主体)、左にコンガが振られている。

この曲のパーカッションはマジで音量がデカい。
一般的にパーカッションはミックスで埋もれさせがちだがこの曲は「主役です」と言わんばかりに目立っている。
フレーズもかなり遊んでいるのに邪魔ではないという絶妙なバランス。

この曲が所収されている『SUNSHOWER』は全編にわたって坂本龍一氏が編曲を担当。
演奏陣もその時代の旬の人を集めましたという感じでかなり豪華。
パーカッションは「この人いろんなところに参加しすぎやろ」で有名な巨匠・斎藤ノヴ氏。
ちなみにバックグラウンドボーカルとして山下達郎氏が参加している。


青い珊瑚礁松田聖子

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青い珊瑚礁

青い珊瑚礁

  • 松田 聖子
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

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こちらの曲は1980年。40年前の曲なんだ……。

鬼のコンガ。
最初から最後までコンガ。
コンガの課題曲として使ってもいいほどにコンガ。

めちゃくちゃ有名な曲だけどコンガが入っていることはみんな知らなかったのではなかろうか。
かく言うわたくしも最近知った。
トゥンバオを基本にセクションごとにリズムが切り替わるので聴いていてかなり楽しい。
松田聖子にはパーカッションがゴリゴリに入っているので他の曲も聴いてみてほしい。


③どんなときも(槇原敬之

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1991年リリース。
言わずもがなだが槇原敬之氏はこの曲で一躍有名になった。

これイントロがパーカッションアンサンブルからはじまるの知ってました?
知らないよね。だれもが聴いたことのある有名な曲なのにね。

使用しているパーカッションの数がえげつない。登場順に紹介。

ティンバレス
・ギロ
・クラベス
・タンバリン
ティンパニ
・コンガ
カスタネット

多すぎ。ラテン音楽

パーカッションは前述の斎藤ノヴ氏に並ぶ巨匠の三沢またろう氏。
もう本当にいろんなところで見ますよね。『あつまれどうぶつの森』のメインテーマのパーカッションも三沢氏。

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④PRIDE(今井美樹

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1996年リリース。
ワイ将2歳。

トライアングル、カバサ、スレイベル、ツリーチャイムなど金物が主体。後半のティンパニも印象的。
「小型の金物楽器をメインにアレンジするならどうするか?」の解答、のようなアレンジであるといえよう。
パーカッションといえばコンガ、みたいなところあるんだけど、コンガレス(そんな言葉はない)でパーカッションが印象的な曲を挙げろと言われたら真っ先にこれ。

2拍目裏にスレイベルを入れるというセンスがマジでしびれる。
思考停止で4拍目頭に入れがちなわたくし、初めてこの曲を聴いた時にはコペルニクス的転回を起こして失禁した。


渚にまつわるエトセトラPUFFY

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1998年リリース。
ワイ将4歳、親父のエロ本を発見して性の目覚めを起こす。

青い珊瑚礁』と同じくずっとコンガが鳴っている。
ストリングスの感じもそうだけど『青い珊瑚礁』をオマージュしているんじゃないかなと思う。

後半リズムがワワンコになるのが本当にたまらん。


⑥君はそう決めた(坂本慎太郎

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2011年リリース。
急にワープ。マジで2000年代以降はパーカッション冬の時代。
おれが知らないだけか。だれかゼロ年代のおすすめおしえてほしい。

坂本慎太郎といえばコンガ。
坂本慎太郎といえばパーカッション。
イントロでわかっちゃうけどこの曲はコンガが支配している。
坂本慎太郎の曲はドラムがほとんど三点のみで一切クラッシュシンバルを使わない。そのためパーカッションがかなり際立つ。

坂本慎太郎みたいに楽器は多いんだけどそれぞれのパートの分離がハッキリしている音楽、いいよね。
あとサックスソロかっこよすぎるだろ。

 

⑦上海an(相対性理論

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2013年リリース。
真部脩一氏と西浦謙介氏の脱退後初のアルバム。

この時期の相対性理論はitoken氏が曲によってドラム(ドラマーは別にいるのでツインドラムになる)、パーカッション、キーボードとマルチにプレイしている。

このアルバムはitoken氏の色がかなり濃く出ている。『上海an』は顕著。
itoken氏はあまりラテン系やアフリカ系の膜鳴楽器は使わない印象(この曲ではボンゴ?が一部で登場)。この曲は彼の得意な?カウベルやジャムブロックが活躍しています。
何気にここまで紹介してきた中で素直にタンバリン振っている曲はじめてでは?


⑧最後の恋煩い(Official髭男dism)

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2020年リリース。
2010年代はガチで邦楽がクソダメな時期だった、とよく言われている。そしてパーカッション氷河期。
ここ最近少しずつパーカッション流行ってきてる?気がしますがどうでしょう。

髭男バカにしてる自称音楽通マジでセンスないからちゃんと聴いてほしい。
マジでアレンジがよすぎるに尽きる。
キーボードがおしゃれすぎ。ホーンかっこよすぎ。

この手のバンドっていくらでもアイドル売りできるはずなんですよ。
サポートメンバーの存在なんて、一部の、ひょっとすると大多数のファンにとってはノイズになりかねない。
それでも投入するこの心意気よ。

リズムをシェケレで刻んでコンガはソロ的に登場するだけってめずらしいアレンジ。
パーカッションは今をときめく若手パーカッショニスト・ぬましょうこと細沼章吾氏。

 

いかがだろうか

意識して聴いてみるといろんな曲でいろんなパーカッションが使われているのがわかる。
ぜひみんなもパーカッションに耳を傾けたり、取り入れたりしてほしい。本当におもしろいので。

この記事がみなさんがもっと楽しく音楽を聞けるようになる一助になれたらよいな、と思います。